二度目の内閣成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:23 UTC 版)
「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「二度目の内閣成立」の解説
この状況下で、国民自由党は民族農民党のように名目上の秘密保持に対して積極的だったため、タタレスクは再び政権へと戻ったが、既に野党禁止文書へ署名をしていたために、1938年4月に国民自由党を追われ、その後数年に亘って、追放の正当性について争った。この追放劇は、民族農民党党首ユリウ・マニウ(英語版)が薦めたものと言われており、その後数年間、国民自由党はディヌ・ブラティアヌの閉じられた勢力圏となった。 タタレスクは、アレクサンドル・ヴァイダ=ヴォエヴォド(英語版)や前首相のコンスタンティン・アルジェトイアヌ(英語版)と並んで、有力な無所属のカロル2世支持者の一人となった。鉄衛団の弾圧ののち、民族再生戦線は、挙国一致内閣の組閣を目指して動いた。その目的は、第二次世界大戦開戦後にルーマニア国境における危機が増加することを考慮して、カロル2世の外交方針を支援することだった。1939年、タタレスクは権威主義がルーマニアに相応しいと主張し、カロル2世はルーマニアを戦火に巻き込まないようにしているという見方を支持した。タタレスク内閣はこの見方を反映して動いていたが、カロル2世はエルネスト・ウルダリアヌ(英語版)とミハイル・ゲルメジェアヌ(ルーマニア語版)の手助けの下、鉄衛団と対話を始めていたのだった。 タタレスクは、第二次世界大戦のまやかし戦争からフランスの降伏まで職務に就いた。内閣はナチス・ドイツとの経済協定(この協定によって、ルーマニアの貿易は事実上ドイツの監視下に置かれた)を結び、ルーマニアとイギリス、フランスとの関係は悪化する一方だった。内閣はソヴィエト連邦へのベッサラビア、北部ブコヴィナの割譲(モロトフ=リベントロップ協定にて決定していた)や、カロル2世による対ドイツ融和政策によって崩壊し、イオン・ジグルトゥ(英語版)が後任となった。その後タタレスクは全体主義政党の国民党を用いて復興戦線を再構築しようとした。
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