予言者としての成功とは? わかりやすく解説

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予言者としての成功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:19 UTC 版)

ノストラダムス」の記事における「予言者としての成功」の解説

1550年代に入ると、ノストラダムスサロン名士として、公共の泉の碑銘起草したり、クラポンヌ運河開削事業出資したりするようになるこうした活動並行して、翌1年間予言した暦書アルマナック)の刊行始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書大変な評判となり、ノストラダムスは、より先の未来を視野入れた著作予言集』の執筆着手する1555年5月初版出され『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響呼び起こしたとされている。 そのわずか2か月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世カトリーヌ・ド・メディシスからの招待受けた。『予言集』の評判王宮届いたことが一因とされることが多いが、暦書評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある。 翌月王宮行われた謁見成功裏終わったようだが、その会見内容不明である。翌年ノストラダムス書いたものをもとに、むしろ会見では予言能力疑われるような不手際があったのではないかという指摘もある。カトリーヌはそれとは別にノストラダムス個人的に呼んで自身の子供たちの未来を占わせたとされ、四人御子息はみな王になるという答え得たという。四男エルキュール早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合三男アンリフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言確認取れていない。この件に限らずカトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出唯一の例外除いては、対話内容伝え史料存在していない。 1557年には『ガレノスの釈義』後述)を出版したノストラダムス医師としての活動縮小してたようだが、1559年処方箋現存している。 1559年6月30日アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世対戦相手のモンゴムリ伯のが右目に刺さって致命傷負い7月10日没した現代では、しばしばこれがノストラダムスの予言通りであったとして大い話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩取り沙汰されたのは、実際に17世紀入ってからのことであった。なお、ノストラダムスは、1556年1月13日付け国王王妃への献呈文をそれぞれしたため1557年向け暦書収録したが、このうちカトリーヌ宛て献辞では、1559年を「世界的な平和(la paix universelle)」の年と予言していた。

※この「予言者としての成功」の解説は、「ノストラダムス」の解説の一部です。
「予言者としての成功」を含む「ノストラダムス」の記事については、「ノストラダムス」の概要を参照ください。

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