亀の前
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亀の前(かめのまえ、生没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。良橋太郎入道の娘。源頼朝の愛妾[注釈 1]。
注釈
- ^ 『吾妻鏡』文中の月日は全て旧暦。
- ^ その背景としては、政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。
- ^ 岩間尹の『実録三浦党』では、大椿寺の開基とされる妙悟尼について、亀の前と全く同じ話が妙悟尼の話として紹介されている。妙悟尼はもともと頼朝の愛妾(そばめ)で名前は妙子といい、後妻打ちの後は三崎の椿御所に移り住み頼朝の寵愛を受け続け、頼朝の死後は出家して妙悟尼となり、椿御所も大椿寺に建て替えて頼朝の菩提を弔ったとされている(松浦豊『三浦半島の史跡と伝説』)。なお『新編相模風土記稿』には「法名大椿寺法円妙悟尼、寛喜二年(1230年)正月廿五日逝去す、宮川村に墓あり、寺記に妙悟尼は頼朝の室なりと云ふ、頼朝の夫人は政子にて事実卒年等も符合せず、こは全く鎌倉の侍女にて、後剃髪し此地に住せしならん」と記載されている。
出典
- 1 亀の前とは
- 2 亀の前の概要
亀の前事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:10 UTC 版)
治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父または兄である牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。 元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。
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