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乾一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/13 08:34 UTC 版)

乾 一郎(いぬい いちろう、1908年(明治41年)1月13日 - 2000年(平成12年)9月19日)は、日本教育者(英語ドイツ語科)、牧師軍人。旧土佐藩士族 乾市郎兵衛家・第9代当主[1]板垣退助の孫[2][3][4]日本福音ルーテル芦屋教会初代牧師[5]


  1. ^ a b c d 『土佐藩ゆかりの会』会報誌
  2. ^ 板垣退助の次男である乾正士の長男にあたる。『讀賣新聞』昭和12年12月2日、9日、16日、23日号記事より。
  3. ^ 『讀賣新聞』平成24年7月13日号記事より。
  4. ^ 『牧師・川瀬徳太郎先生を憶う』(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年(1985年)11月1日)
  5. ^ a b 『日本福音ルーテル教会史』424頁、「昭和十年の總會に於て(中略)乾一郎芦屋傳道所へ」とあるが、同書422頁には「昭和九、十年に於て新しく傳道地を開拓したのは、鹿兒島、京都北、(兵庫)芦屋、(大阪)豊中であった」とある。『板垣精神』所収の乾一郎の履歴によれば、芦屋への着任は昭和8年12月13日である。正式名は「芦屋傳道所」であるが、当時の書簡名刺に「ルーテル芦屋教会」の名称が使用されている。『(日本福音ルーテル)教会自給十年計画・昭和十一年一月現在自給表』によれば芦屋は、昭和10年度「一圓」、昭和11年1月「一圓五十銭+(五十銭)」であった。
  6. ^ 『養蚕実験真説』を著した高野成雄は乾八重野の実弟。
  7. ^ a b 『養蚕実験真説』高野成雄著”. 北信成蚕社 (1909年2月25日). 2020年8月13日閲覧。
  8. ^ a b c d e 『讀賣新聞』昭和12年12月2日、9日、16日、23日号記事。
  9. ^ a b c 『板垣会』会報第1号より
  10. ^ 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
  11. ^ 『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、中川書店、1993年
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年8月13日閲覧。
  13. ^ 板垣退助芝公園旧邸の現住所は、東京都港区芝大門1-10-11附近で、現・芝大門センタービルにあたる。(『立國の大本』板垣退助遺著/髙岡功太郎現代語訳、一般社団法人板垣退助先生顕彰会発行、12頁より)
  14. ^ 『高知県立高知城東中学校卒業生名簿』
  15. ^ 塩見俊二は、昭和43年(1968)7月、板垣退助先生顕彰会顧問に就任。
  16. ^ 『日本ルーテル神学校 五十年のあゆみ』日本ルーテル神学校編纂、1959.11.2
  17. ^ 『土器と黎明 -ある伝道者の生涯-』青山四郎著、1978年、グロリア出版
  18. ^ a b c 『軍歴簿(乾一郎)』陸軍省編成による。
  19. ^ 『讀賣新聞』昭和12年12月2日号記事。
  20. ^ 『板垣退助銅像修復の栞』板垣退助銅像改修期成会編(1990年
  21. ^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年12月10日号参照
  22. ^ 『日光の板垣退助銅像』田辺昇吉著(所収『土佐史談』第161号)
  23. ^ a b c 『日本福音ルーテル教会史』、420頁「神學校が熊本から移轉して、日本ルーテル神學専門學校と改稱して以来、即ち昭和初年からの卒業生を一覧すると、左のとおりである。昭和二年、福山猛、昭和三年、川桐新一、松岡幹三、昭和四年、山内六郎青山四郎、坂井賢男、高瀬義正、昭和五年、内海季秋、昭和六年、武井正悟、小泉昻、昭和七年、田坂惇巳、妹尾武夫、井芹貞安、大川鐵次、矢野静良、乾 一郎、昭和八年、東菊次、野村明、昭和九年、太田敦次、昭和十年俵貢、岡本榮一、石山義澄(中略)昭和十三年、北森嘉蔵」による。
  24. ^ 『日本ルーテル神学校 五十年のあゆみ』41頁では「昭和八年」とあるが「昭和七年」の誤記。
  25. ^ 『癩病療養所の慰問と神の恵み』乾一郎
  26. ^ 現住所・兵庫県芦屋市西芦屋町2-3
  27. ^ a b 『板垣精神』、395頁
  28. ^ 高知市桜馬場8番地」は後の「高知市越前町1丁目54番地」で現在の「高知市越前町1-10-3附近」(『板垣精神』、401頁)
  29. ^ 『日本福音ルーテル教会史』、427頁「この年(昭和12年)支那事變のために應召したのは、青山四郎、坂井賢男、乾一郎の3名であったが、乾一郎は上海「ウーソン(呉淞)」の敵前上陸に参加。激戦して重傷を負い歸國して療養生活に入った」とある。
  30. ^ a b c d 軍歴簿では「8月23日、川沙鎮敵前上陸、続く羅店鎮の戦闘で、右上腕部貫通銃創」を受け上海野戦病院で療養。内地送還されたのは翌年以降である。
  31. ^ 乾一郎の戦友として、同部隊の山崎正一軍曹、志和貞雄伍長、須賀信之伍長らの武勇伝も同時に報じられた。最終回が全文にわたり高知弁で報じられたのは「乾伍長:おゝのかしい。あしが一人の支那兵を突いた時、(支那兵が)ふり返つてあしの顔を見たきに、あしやこの男にも親か兄弟もあるらうに、これも神の子ぢやにと思うたぜよ」の部分「支那兵もわれらも神の子」の文言が戦意高揚を失するのではないかと問題となり、掲載不許可となりかけたものを高知弁に直して有耶無耶とし掲載の許可を得たものと伝えられている。(『板垣精神』456頁より)
  32. ^ G・K・リン夫人の事を学生たちは「徐啓林」と洒落て中国人風に渾名で呼んでいた。
  33. ^ 『板垣精神』457頁、『戦地に届いた手紙』より「My dear Mr. Inui: Last night I dreamed about you and so I will write you a few lines this morning. I was glad to get a card from you about a month ago. So sorry to hear you had to under go an operation in January, it was so painful But I hope, by God’s mercy, you are going to be entirely well again, & soon. You have had a long & tiresome spell of healing delicate. Long ago I promised to send you a small photo of our family so last summer when Kenneth came, we had some taken in July 1937. I am sending you one today. Kenneth was 18 years old. Marian was 15. You can see how they have grown & developed. Kenneth's address is "Phi Sigma Kappa" Gettysburg, Pennsylvania, USA. I'm sure had like to have a card from you. Do hurry & get well. I wonder if you will be able to attend the Convention at Kobe this & next week. with sincere good wishes your friend. Mrs. G. K. Lim. (Lucy Lim) 448. Umabashi, 4 chome. Suginami Ku, Tokyo」(「杉並区馬橋4丁目」は現在の「杉並区高円寺北4丁目」で、現在の地図では「馬橋キリスト教会」があるが関連は不明。「Phi Sigma Kappa" Gettysburg, Pennsylvania, USA」は現在は「マサチューセッツ大学アマースト校」になっている)
  34. ^ 宣教師・S・O・トウラクソン(Rev. S.O.Thorlaksson, B.D.)は、明治23年(1890)5月26日、米国ミネソタ州ミネソタで誕生。1913年ミネソタ州セントピーターのグスタフ・アドルフス大学を卒業後、シカゴ・ルーテル神学校へ入学。1916年、同校卒業。同年5月結婚。6月、アイスランドシノッドで按手礼を受け、ゼネラル・カウンシルによって日本宣教の任命を受け、同9月、日本に来着。最初の1ケ年は東京日本語学校で学び、のち名古屋へ赴任した。昭和16年5月、米国伝道局から推薦され、米国太平洋岸に住む日本人移民二世の教化事業に従事することとなり、日本伝道を辞して米国に帰国し、再び日本へ着任することはなかった。米国の日本人排斥法案に反対し、日米の親善に努めたが日米開戦後は、やむなくサンフランシスコに在住し、米国海軍の軍属下として軍人のため超教派的救済事業に従事した。終戦後は北部カルフォルニア地方の日本人アイスランド人のための自由伝道に従事し、またそれらのよき相談役として奉仕事業を続けた。(『日本福音ルーテル教会史』、156頁、467頁より)
  35. ^ 「トウラクソン(Þorláksson、通常はThorlakssonと表記)」姓はグリーンランド南西沖に位置するアイスランド人固有の名前であり、アイスランド米国人であったと思われる。
  36. ^ a b 『板垣精神』、388頁
  37. ^ 溝田繁映画プライド 運命の瞬間』(1998年東映) - 梅津美治郎役など。
  38. ^ 『皇紀二千六百年と教会合同』日本基督教連盟
  39. ^ 系譜としては、板垣退助家の分家・旧土佐藩士 乾市郎兵衛家の第九代当主となる。
  40. ^ 『板垣精神』、382頁
  41. ^ a b 『恩師・乾一郎先生の言葉』より。
  42. ^ 新約聖書ヨハネ伝』第8章32節「真理は汝らに自由を得さす可し(ἡ ἀλήθεια ἐλευθερώσει ὑμᾶς/眞理令爾得自由/ヘー・アレーテイア・エレウテローセイ・ヒュマース)」より命名。「真理を知ることは、私たちの思考と生活を拘束し、不自由にしている様々なもの、即ち桎梏、苦悩、不安から解放してくれるであろう」より。(『板垣精神』398頁)
  43. ^ a b 【板垣退助の孫】乾一郎 出演『北から南から』(中部日本放送)昭和38年(1963)8月放送


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