羅店鎮の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 06:00 UTC 版)
依光裕著『目で見る土佐(上)県民性(一生懸命土佐に生きて)』によると、高知歩兵第44連隊が支那事変で戦った時の様子が描かれている。1937年(昭和12年)7月7日、支那事変が勃発すると、8月には高知の和知鷹二大佐率いる歩兵第44連隊が支那戦線に動員された。連隊長の和知鷹二大佐は陸軍参謀本部出身で、この頃の陸軍は個々の連隊装備を秘匿するために連隊長の名を冠して部隊名を称したため、第44連隊は「和知部隊」として出征している。同部隊は、同年8月23日の早暁、羅店鎮方面の揚子江沿岸及び呉淞鎮付近に於て果敢な敵前上陸を敢行し、中支の地に第一歩をしるした。それから27日間にわたり攻防戦が繰り広げられたが、9月23日上海近郊の羅店鎮の白壁の家附近で敵兵の激しい抵抗に遭い初めて立ち往生、戦死傷者を続出させる激戦となった。当時の新聞は、和知部隊の勇蒙果敢な戦果を挙って報じたが現実にはかなり悲惨なものであったという。11月11日、敵が堅塁を誇った南翔を陥落、和知部隊が一番乗りの殊勲をたて1938年(昭和13年)3月凱旋した。和知大佐は、羅店鎮(現・上海市宝山区羅店鎮)において長津部隊と共に己ら部隊の数十倍にあたる敵兵と勇猛果敢戦ったがその作戦は、和知部隊は、要所要所に少数の守備兵を配し大部隊を見通しのきく高所に待機させ、敵軍が攻めてくるとその方向に兵を増援するという戦法であった。長津部隊は逆に、要所要所に多数の守備兵を配置し敵軍が攻めてきた箇所に応援を送るという戦略で、両部隊は戦法こそ異なるが互いに協力して羅店鎮を死守することが出来た。
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