中央集権体制の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:51 UTC 版)
初期の頃は幼少であり、母后が政務を見ていたという記録が、当時琉球に漂着した朝鮮人の記録にも見える。 50年にわたった尚真王の最大の事跡は、中央集権体制を確立し、第二尚氏王統の権力基盤を安定させたことである。 そのために、各地に割拠して力を持っていた按司を首都・首里に集居させ、地方には代わりに按司掟という役人を派遣して領地を管理させた。首里に住む按司には領地に応じた収入を保証した。按司には位階が与えられ、身分に応じてハチマキの色やかんざしの種類が決められた。 また地方制度を改革し、現在の市町村に相当する地域を間切、字に相当する地域をシマとした。 また神女を聞得大君の元に組織化し、各地のノロをその統制下においた。初代の聞得大君には王の妹、月清が就任する。妹の霊力で政治を行う兄を守護するというおなり神信仰であるが、同時に神祇面での中央集権化である。 さらに、中央官庁には王を補佐する三司官(世あすたべ)を置いた。 1500年(弘治13年)には八重山諸島で起きたオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年(嘉靖元年)には与那国島を征服し、版図を拡大した。宮古・八重山から奄美に至るまで琉球王国に服属するに至った。
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