中国武術修行時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 10:30 UTC 版)
東恩納は、1877年(明治10年)、20歳の頃に中国(清)への渡航を果たした(長嶺将真説)。他にも24歳(宮里栄一説)等がある。東恩納が中国へ渡航した理由は、拳法修行説、出稼ぎ説、頑固党(中国派)の琉球王族、義村御殿の義村朝明の密使説など諸説がある。いずれにしろ、東恩納は渡航した直後は、当地で薪売りをしていたとも、薬売りをしていたとも言われるが、やがて中国武術の大家ルールーコウ(トゥルーコウとも)に師事することになった(ワイシンザンに師事したとの説(安里安恒)もあり)。 最初、言葉が不自由だったこともあり、また当時の武術修行の常として、東恩納はなかなか本格的な武術の教授をしてもらえなかった。歩法と呼吸法の稽古ばかりを4、5時間もさせられ、他は師の雑用ばかりだったという。しかし、あるとき起こった大洪水のおり、東恩納は命がけで師匠の家族を救ったことでルールーコウの信頼を得、師から本格的な武術教授を受けることになったといわれる。その後、東恩納はルールーコウの中師匠(師範代)にまでなるほど、その技量を認められるようになった。 東恩納が中国に滞在していた期間については、複数説があり結論が出ていない。15年説(長嶺将真など)、3年説(宮城長順、比嘉佑直、知花朝信、東恩納寛量の孫など)、さらには往復の渡航期間を除くと1年4ヶ月が実質の滞在期間だったとする研究者もいる(渡嘉敷唯賢)。ほかに8年説、10年説、16年説、30年説(渡口政吉)などもある。また、渡航も複数回説があるが、当時、中国への渡航は厳しい管理下にあり「脱清」は容易でなかったことから、これには否定的な見解があり結論は出ていない。それゆえ、東恩納寛量が帰国した歳も、20代から40代まで様々な説がある。
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