両隠居続料掛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)
藩主斉興の後見という形で藩の実権を握った重豪であったが、深刻化した藩の財政難への対応に苦慮し続けることになる。藩財政困窮化の要因のひとつが重豪、斉宣という2人の隠居の江戸住まいであった。当時は華やかで奢侈の風潮が蔓延した化政文化の最盛期でもあり、重豪の江戸での生活費用は20万石、斉宣は10万石の大名の経費に匹敵すると言われたほどである。 文政7年(1824年)11月、調所は町奉行在職のまま側用人格両隠居続料掛に任命される。両隠居続料掛とは重豪、斉宣の隠居料調達を担う職務であった。両隠居続料掛として調所が取り組んだのが、琉球貿易によって入手した中国産品を長崎で販売する薩摩藩の長崎商法による収入増であった。薩摩藩は長崎商法の拡大を図ったものの、長崎会所による貿易を圧迫するため幕府は規模の拡大に難色を示していた。そこで重豪の側近であった堀殿衛を中心に、調所も長崎奉行所関係者、幕閣への工作に奔走した。薩摩藩は長崎商法に関与するようになった天草の豪商、石本家の協力を得て大量の金品をばら撒き、文政8年(1825年)には長崎商法での取り扱い品目を10品目増やすことに成功する。 堀殿衛と調所は長崎商法拡大への貢献を評価され褒美が与えられた。そして文政8年(1825年)8月、調所は町奉行から側用人、側役勤に配転し、藩主側近に復帰する。これも長崎商法拡大によって重豪、斉宣の隠居料調達に貢献したことが評価されたためと考えられる。調所は側用人、側役勤に配転後も長崎商法に関わり、文政10年(1827)4月にも長崎商法への貢献を賞されている。
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