両軍の初動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
フランスによる対プロイセン宣戦布告は7月19日だったが、閣議決定は7月14日であり、15日早朝には総動員令が下された。7月15日夕方には、北ドイツ連邦主席であるプロイセン国王ヴィルヘルム1世も、同様に総動員令を下令し、南独諸邦も同盟により16日以降総動員体制を取った。 一見すると、先行したフランスが有利のようだが、前述の通り、両国の実際の動員可能兵力数は、プロイセンが有利であった。 プロイセン軍の配置は、次の通りだった。 第1軍(右翼) - 6万人:シュタインメッツ元帥 第2軍(中央) - 13万1千人:フリードリヒ・カール王子 第3軍(右翼) - 13万人:フリードリヒ王太子 予備軍 - 6万3千人 フランスがベルギー及びルクセンブルクを侵犯する可能性は無いと考え、メス(独:メッツ)~ストラスブール(独:シュトラースブルク)間での戦闘が予想された。そこで、第1軍はトリーア→ザールブリュッケン→メス、第3軍はシュパイアー→ストラスブールを、そして第2軍はマインツを起点に1・3軍の中間で両者と連携することが計画された。 フランス軍は確固とした戦闘計画はなかった。およその配置は次の通り。 アルザス方面に第1・7軍 - 3万5千人:マクマオン元帥 ロレーヌ方面に第2・3・4・5・近衛軍 - 12万8千人:ナポレオン3世 通称:ライン軍 予備軍(シャロン):第6軍 - 3万5千人
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