両軍の兵力に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 06:08 UTC 版)
連合軍の兵力に関してであるが、有馬鎮貴は5,000人の手勢、島津軍と合わせても総勢1万人に満たなかった。また連合軍に関しての逸話として、ルイス・フロイスは『日本史』において有馬方には2門の大砲が船積みされていたが砲手がおらず、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火し、厄介な操作にもかかわらず見事に発射したと記述している。また同じくフロイス『日本史』(西九州篇第五十三章)における記述によると「敵は再び我らの柵塁を攻撃してきた。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでに幾分疲弊しており、彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。すなわち龍造寺勢は多数の鉄砲を有していたが、弓の数が少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、薩摩勢は鉄砲の数が少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に長い太刀を備えていた。(中略)両軍とも槍を構える暇がなく手当たり次第に敵の槍を太刀で斬り払い、鉄砲も弾を篭める暇がないので撃つのをやめてしまった」とあり、島津軍の誘導作戦もあるが双方とも鉄砲を撃ち合う暇を要しない程の激戦であり、龍造寺軍は島津軍を上回る兵力や鉄砲の数を有効に活かせなかった事が窺い知れる。 龍造寺軍の兵力は5万7000人。薩摩方の記録には6万人とある。ルイス・フロイスの書簡には2万5000人とある。 5万7000という数字は『北肥戦誌』に記述があり、その後に本来柳川城にて筑後国を抑えるよう命じられていた鍋島直茂が、柳川城へ父の鍋島清房を入れて参陣したとある。その人数は『北肥戦誌』には詳らかにないが、フロイス『日本史』によると、直茂は兵船50、人員5,000で島原城へ入らんとしたが、有馬・島津の為に上陸できず三会城(別名:寺中城)へ入ったとし、『北肥戦誌』にある当初の数5万7000と合わせれば6万以上の動員に達する。
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