三十姓タタルと九姓タタル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 16:18 UTC 版)
8世紀の『ホショ・ツァイダム碑文(キョル・テギン碑文)』に、「バイカル湖の東岸方面のクリカン(骨利干)とシラムレン川のキタン(契丹)の間に、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)がいた」と刻まれたように、突厥の時代から室韋は三十姓タタルと呼ばれていたのであるが、一方で『シネ・ウス碑文』などに「トクズ・タタル(九姓タタル)」という集団がセレンゲ川下流近くに居住していたことも記されている。九姓タタルと三十姓タタルとの関係はわかっていないが、九姓タタルが三十姓タタルと同じ起源であるとすれば、これも室韋から分かれた集団であると推測できる。しかしながら、『新五代史』に記されている「達靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨の遺種」と記されており、室韋の後身とは記されていない。 860年代に九姓タタルは回鶻(ウイグル)を滅ぼした黠戛斯(キルギス)を撃退し、オルホン川流域に割拠した。13世紀にモンゴルが強大になるまでモンゴル高原の支配部族であったケレイト王家はおそらく九姓タタルの後身である可能性が高い。 一方で室韋の旧地に残っていた三十姓タタルは、かつて九姓タタルが住んでいたセレンゲ川上流域や、ケルレン川上流にまで住地を広げ、13世紀に活躍するモンゴルやタタル部といった部族の起源となる。
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