ロンドンへの亡命・フランス帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 15:08 UTC 版)
「ルイーズ・ミシェル」の記事における「ロンドンへの亡命・フランス帰国」の解説
1890年4月、サン=テティエンヌでの演説とヴィエンヌでの暴力デモの発端となった集会への参加後逮捕される。ひと月後ミシェルの仮釈放が決定するが、同時に告訴された者が拘置されていたためこれを拒否。独房を滅茶滅茶に破壊するようになったため医師によって精神異常として措置入院が要請されたが、トラブルを恐れた政府はこれを却下した。このときミシェル60歳である。最終的には釈放され、6月4日にヴィエンヌからパリへと移った。7月にはロンドンへ亡命し、数年間現地で自由主義の学校を運営した。1895年11月13日に再び帰国した際には彼女を歓迎する群集がサン=ラザール駅に集まった。 生涯最後の10年間には友人らと共に行なったロンドン滞在を挟みつつ、革命思想・無政府主義の重鎮としてパリや地方で数多くの講演を行なうと同時に、街頭で闘い続けた。1895年、無政府主義者セバスティアン・フォール(fr:Sébastien Faure)と共に新聞『絶対自由主義』(Le Libertaire)を発刊。1896年7月27日にはロンドンで開催された国際社会主義労働者・労働組合会議(congrès international socialiste des travailleurs et des chambres syndicales ouvrières)に参加。デモの際には数度に渡って逮捕され、6年間の投獄処分が決定されたがジョルジュ・クレマンソーの仲介によって3年で釈放された。これは死の床にあった母親を見舞うためであった。ミシェルに対する警察の監視は非常に厳しく、この他にも何回か投獄を経験している。 1905年1月、講演行脚の中途で肺炎に倒れ、マルセイユで没した。1月21日朝にパリで行なわれた彼女の葬儀には何千という群集が集まった。数多くの者が弔辞を述べ、この中にはフリーメイソン「普遍的友愛支部」(la Loge de la Fraternité Universelle)の長の姿もあった。彼女の墓碑にはフリーメーソンの記章と紋が刻まれ、セバスティアン・フォールはこれを指し、彼女はいかなる団体にも、無政府主義団体にさえ帰属していない、なぜならば無政府主義運動は未だに確立されていないからであると述べたが、一方でミシェルが実際に国際フリーメーソン組織「人権」(fr:le Droit humain、1893年に世界初の女性フリーメイソン会員マリア・ドレームと急進左派の県会議員ジョルジュ・マルタンによって設立された男女混成のロッジ)に入会していたとの証言もある(アンドレ・ロリュロ(フランス語版)による)。ミシェルはその死の前年、マドレーヌ・ペルティエ(Madeleine Pelletier)の勧めで入会の言葉を述べたといわれる。入会儀式は行なっておらず紹介会員のような形であり、この支部(ロッジ)の会員は彼女が招待に応じて加盟したことを名誉とし入会儀式を免除したとのことである。実際、フランス女性グランドロッジュ (GLFF) の公式ウェブサイトには、「1904年9月13日、「社会哲学」ロッジ内の男女混合スコットランド象徴グランドロッジで入会儀式を受けた」と書かれている。
※この「ロンドンへの亡命・フランス帰国」の解説は、「ルイーズ・ミシェル」の解説の一部です。
「ロンドンへの亡命・フランス帰国」を含む「ルイーズ・ミシェル」の記事については、「ルイーズ・ミシェル」の概要を参照ください。
- ロンドンへの亡命・フランス帰国のページへのリンク