ロンドンへ亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 05:58 UTC 版)
その一方で、ユダヤ人で女性でもあったラントは第二次世界大戦前のウィーン(赤いウィーン)においてさえも研究職を手にすることができず窮乏していた。そして1939年に前年のドイツによるオーストリア併合から逃れるように、ロンドンに亡命することとなる。 イギリスにおいて、生活のために看護師として働きつつ、ケンブリッジ大学のモラルサイエンス・クラブ(英語版)に「外国人特別参加者」として席をおき、ウィトゲンシュタインの講義などに積極的に参加していた。しかし1943年に心身の不調などからその身分を失い、工場で検品作業をしながら、夜間にはルートン工科大学とトッテナム工科大学でドイツ語と心理学を教える非常勤の職で生活をつないだ。 カール・ポパーは自身のウィーン大学時代の指導教官カール・ビューラー(英語)とも親しかったラントが少額の研究助成金を受給できるように手助けを行い、その結果、改めてラントは「特別研究生」としてオックスフォード大学に籍をおくことができるようになった。他方で1943年から1950年まで工場労働も続けていた。
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