ラガシュ・ウンマ戦争
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ラガシュ・ウンマ戦争は、戦争に関する直接的な資料が存在するものの中でも、最古の歴史的出来事である。これらの資料は、18の王碑文から構成されているが、ラガシュの統治者によって放棄され、都市国家ラガシュの宗教的首都であった古代ギルス(現在のテルロー)の遺跡の発掘調査で発見されたものであるため、部分的である。この資料に含まれている様々なエピソードは、紀元前2600年から紀元前2350年までのおよそ2世紀半の間に起こったものである。
- ^ B. Lafont, « Eau, pouvoir et société dans l'Orient ancien : approches théoriques, travaux de terrain et documentation écrite », dans M. Mouton et M. Dbiyat (dir.), Stratégies d'acquisition de l'eau et société au Moyen-Orient depuis l'Antiquité : études de cas, Beyrouth, 2009, p. 11-23
- ^ Seth Richardson, "Early Mesopotamia: The Presumptive State", Past and Present (2012) 215 (1): 3-49 doi:10.1093/pastj/gts009, 戦争に関しては p.10 から、この種の領土戦争の希少性については p.14 から。
- 1 ラガシュ・ウンマ戦争とは
- 2 ラガシュ・ウンマ戦争の概要
- 3 対立の始まり
- 4 エアンナトゥムの勝利
- 5 続く戦争
- 6 関連項目
ラガシュ・ウンマ戦争
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ラガシュ第1王朝とウンマは100年にわたり国境を巡ってラガシュ・ウンマ戦争(フランス語版)を起こしていた。この戦争に関して当時のラガシュ王たちがさまざまな碑文を残しており、現存する歴史文書の中では最古級に属する。それによれば、最初はキシュ王メシリム(メスアンネパダ?)の仲介によってラガシュとウンマの間の国境を定め、それを示す石碑が建てられた。しかしウンマが国境を侵し、石碑を移動させたのでエアンナトゥム王はウンマと戦い石碑を元の位置に戻したという。その後エンメテナ王に至るまで3代にわたってたびたびウンマと戦ったと記録されている。後にウンマとラガシュは和平協定を結ぶが、これは史上最初の国際条約といわれている。
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ラガシュ・ウンマ戦争
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「エアンナトゥム」の記事における「ラガシュ・ウンマ戦争」の解説
詳細は「ラガシュ・ウンマ戦争(フランス語版)」を参照 取り分けウンマとはこの王の治世より長期にわたる戦争を繰り広げることになる。ウンマとはかつてキシュ王メシリム(メスアンネパダ?)の仲介で国境が定められ、国境を示す境界石が置かれていたが、ウンマ王ウシュ(ロシア語版)が境界石を破壊して侵略してきたためにこれを撃退したとラガシュの史料は伝える。ラガシュ市とウンマ市の間にはグ・エディン・ナ(シュメール語: GU.EDEN.NA。「平野の境界」の意)と呼ばれる肥沃な平野が広がっており、この平野の帰属を巡るトラブルから戦争が発生したと考えられる。 ウシュ王の侵攻に端を発する戦いは長期に渡ったが、エアンナトゥムはこれを撃退し、ウンマの次の王エナカリ(ロシア語版)(エンアカルレ)は国境線を元の場所に戻し、境界石を再び置く事に同意して和平を結んだという。 この戦争に関しては敵対者であるウンマ側の記録が発見されておらず、ラガシュの記録がどの程度真実を伝えているのか検証は困難である。だが、エアンナトゥムはキシュ王(この称号についてはキシュの項目を参照)を称するほどの勢力を誇った王であり、実際に数多くの戦争を戦って勝利を収めたと考えられる。
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