ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー (Rainer Werner Fassbinder, 1945年5月31日 - 1982年6月10日) は、ドイツの映画監督、脚本家、舞台演出家、俳優。ニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人として知られる。16年間で44本の映画、14本の戯曲、6本の脚色戯曲、4本のラジオドラマを発表した[2]。
注釈
- ^ Franz Walsch. 主として映画の編集を担当した際のクレジットに用いられた。名のFranzはドイツの作家アルフレート・デーブリーンの小説『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公の名前から、姓のWalschはアメリカの映画監督ラオール・ウォルシュの姓をドイツ語風に綴ったものだと明石政紀は述べている[1]。
- ^ 1946年生まれとする典拠もあるが[4]、これは本人の生年詐称による誤りという[5]。ファスビンダー財団も1945年生まれとして年齢を計算している[2]。
- ^ Helmuth Fassbinder. ファスビンダーの父ヘルムートとの思い出の一端はW・リマーらのインタビューで語られている[6] 。
- ^ Liselotte Eder(1922年 - 1993年)。Liselotte Pempeitとして1922年に生まれ、1945年にファスビンダー監督の父ヘルムートと結婚してLiselotte Fassbinder、1951年に離婚、1959年の再婚によりリーゼロッテ・エーダーとなる。ファスビンダーの多くの映画・演劇に関わり、女優としても出演。死後は息子の著作権を保全・管理するライナー・ヴェルナー・ファスビンダー財団を設立した[2]。翻訳者としては英語・仏語を扱い、トルーマン・カポーティの初期作品のドイツ語訳などがある。
- ^ 公立の小学校を放校になり、ミュンヘンのレオポルト通りのシュタイナー学校に転校したとファスビンダーは語っている[7]。
- ^ ファスビンダーはインタビューで、映画を作り始めたのは誰の影響かと問われて、「ぼく自身です。ぼくは、『行動劇場〔アクツィオン・テアーター〕』に入団する前に、すでに二本短篇映画を製作していた。もともと映画のほうに興味があったわけです。」と答えている[10]。
- ^ 俳優養成学校からアクツィオン・テアーターを経てアンチテアターに至る時期のことをファスビンダーは、のちに多くの自作で主演として起用する女優ハンナ・シグラに関する文章「ハナ・シグラ : スターにあらずわれわれ皆と同じ弱い人間(興味をそそるある女優についてのまとまりのない考え)」(1981年初出)の中で詳しく回想している[14]。
- ^ Ferdinand Bruckner(1891年 - 1958年)。本名はTheodor Tagger。オーストリア・ドイツの作家、劇作家、演劇監督[15]。
- ^ "Die Verbrecher". Schauspiel in drei Akten. S. Fischer Verlag, Berlin 1928.
- ^ のち1970年にアンチテアターによる新演出でも上演(於 エッセン市立劇場)されている[17]。
- ^ Peer Raben(1940年 - 2007年)。本名は Wilhelm Rabenbauer。プロデューサー、舞台演出家、俳優。のちに映画音楽の作曲家として活躍。アクツィオン・テアーターの共同設立者の一人。ファスビンダーの最初の長編『愛は死より冷酷』から遺作『ケレル』まで多数の作品の音楽も担当している。2003年、「ベルリナーレ・カメラ」受賞。ファスビンダー作品の音楽のアンソロジーとしてサウンドトラック盤 "The Film Music From Rainer Werner Fassbinder Films" (1997) がある。
- ^ 映画作家13名によって1971年に設立されたドイツのインディペンデントな映画配給会社。ファスビンダーは1974年の改組の際に参加した。直訳は「作者たちの映画出版社」。丸山匠はW・リマー(1983)の「訳者あとがき」で、「『映画人配給』と訳語をつけましたFilmverlag der Autoren(映画人出版社)は、映画人がフリーな活動を求めて自主的に設立した組織であり、確かに映画台本の出版も手がけていますが、主たる活動が映画配給であるためにあえて意訳しました。この組織がニュー・ジャーマン・シネマの拠点となっているだけに、特にお断りしておきます。」と述べている[21]。
- ^ Ignatz Bubis(1927年 - 1999年)。不動産投機で成功した。晩年には在ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長。
- ^ 自殺だったとの説もあるが、確たる証拠はないとされる[要出典]。
- ^ ユリアーネ・ローレンツによるRWFFの引き継ぎを前年の1991年とする典拠もある(e.g. 独語版Liselotte Eder項)。
- ^ 8ミリ・カラー。1966年10月に撮影された最初の短編映画(プリントは現存せず)[32]。
- ^ 16ミリ・白黒・10分。この『宿なし』と『小カオス』の短編映画2本は、両作で主演したクリストフ・ローザー(Christoph Roser(ルクセンブルク語版))の出資で製作された[32]。
- ^ 35ミリ・白黒・9分(元は12分という)。撮影はミハエル・フェングラー。「初めての35ミリ映画で、後のファスビンダーのギャング物の先駆けをなす」と明石政紀は註している[32]。
- ^ 撮影はディートリヒ・ローマン。「ファスビンダーの長編第1作目であると同時にアンチテアーター〔Antiteater-X-Film〕の最初の映画である」と明石政紀は註している[18]。ジャン=マリー・ストローブが野外撮影で協力しており[33]、献辞に「ランツベルク通りの通行は、ジャン=マリー・シュトラウブの尽力による」とある[34]。第19回ベルリン国際映画祭で初上映された[35]。
- ^ 外国人労働者(ファスビンダー自身が演ずる)が登場し、最初の長編『愛は死より冷酷』よりも大きな反響を呼び「公的にはデビュー作的映画」になったと明石政紀は註している[19]。献辞に「マリールイーゼ・フライサーに」とある[34]。1970年のドイツ映画賞(長編映画賞、脚本賞)を受賞。原作は前年1968年初演の自作の同題戯曲で[36]、「外人野郎」(岩淵達治 訳)として『現代世界演劇17 : 最新劇』(白水社、1972年)に日本語訳を収載[37]。なお、日本では1971年、『出かせぎ』の邦題で公開されたという[3]。
- ^ ハリー・ベールが演じる「フランツ・ヴァルシュ」が登場する[38]。
- ^ テレビ演劇。前年の1969年にアンチテアターがブレーメン州立劇場でおこなった公演(ペール・ラーベンと共同演出[36])をスタジオで再演したもの[39]。脚本はカルロ・ゴルドーニの戯曲をファスビンダーが脚色したもので、原作『珈琲店 La bottega del caffè』(1750年)には複数の日本語訳がある(「カルロ・ゴルドーニ」の項目を参照せよ)。
- ^ ミハエル・フェングラーとの共同監督作品で、同年の第20回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品された。「脚本はなく、フェングラーとファスビンダーのガイドラインに基づき、俳優たちが即興で喋っている」と明石政紀は註している[40]。また、明石は「ベルリン映画祭で初公開され大受けしたフェングラーの『R氏』」「ファスビンダー/フェングラーの共作とされながらも実はフェングラーの映画だった『何故R氏は発作的に人を殺したか?』(..)(この映画はもうファスビンダーの自作目録から外したほうがいいんじゃないかと思う)」と記している[41]。製作の経緯についてドイツ語版Wikipediaの記述も参照せよ。1971年のドイツ映画賞(最優秀監督賞)受賞。第20回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品。
- ^ 先行する『愛は死より冷酷』『悪の神々』とともにファスビンダーのギャング映画三部作[42][43]。「三作のなかでは一番「ギャング映画」らしい容貌を持った映画であり、主人公リッキーの出立ちもそれなりにギャングっぽい。」と明石政紀は註している[43]。
- ^ ミハエル・フェングラーとの共同監督作品。「15世紀の〔ハンス・ベームの〕古事に基づいてるが、中世もロココも三銃士も背広もジーパンもミニスカートもごっちゃに出てきて、時代は意図的にぐちゃぐちゃにされる。途中にはアモン・デュールIIの演奏を聴きながらラリっているアンチテアーターの面々の「実写」が挟み込まれたり、ブラックパンサーに関する引用も行われたりする。(..) この映画は68年革命とその状況についての寓話である。」と明石政紀は註している[44]。
- ^ 明石政紀は「同僚監督のフォルカー・シュレーンドルフに捧げられている。映画では、シュレーンドルフの原案にあったふたりの女ともだち〔の性別〕が、男に変更され、ここはいかにもファスビンダーらしく、南洋の島に行くという夢は、南米に宝探しに行くという夢に変わり、さまざまな障害にぶつかるところは同じで、最後に突然パトロンが登場して、この夢を実現することができるのだが、」と記している[45]。
- ^ 「ファスビンダーが高く評価していたマリールイーゼ・フライサーの戯曲に基づく」と明石政紀は註している[46]。同題のフライサーの2作目の戯曲 "Pioniere in Ingolstadt" は1928年にドレスデンで初演、翌1929年3月末のベルトルト・ブレヒトが関わったベルリンでの上演が大きな非難と反響を呼んだ[47]。
- ^ 原作者マリールイーゼ・フライサーの作品とファスビンダーの関わりについて、三上雅子は「自分の小劇場公演での上演台本を探していたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは、偶然手にした戯曲『工兵〔インゴルシュタットの工兵たち〕』に「これこそ我らが求めていた芝居」(das Stück)を見い出したのである。彼は『工兵』をコラージュ風に改作した戯曲『例えばインゴルシュタット』を上演〔1967年[36]〕、続いて1970年にはヴッパータールの劇場が40年間一度も舞台に上らなかった〔戯曲第1作〕『煉獄〔インゴルシュタットの煉獄〕』の上演許可を求めてくる。フライサー・ルネサンスが始まったのだ。/ フライサーを現代に蘇らせたのは、戦後派世代の若き劇作家、わけても先のファスビンダー、フランツ・クサーヴァー・クレッツ、マルティン・シュペルら、「新民衆劇」、或いは「批判的民衆劇」と総称される新しい演劇傾向を代表する作家達であった。(..) 若き作家たちはフライサーを母と呼び、フライサーは彼らを「みんなわが息子」と名付けた。」「『工兵』のファスビンダー改作は作者の事前了解なしに行われた」と述べている[48]。
- ^ ファスビンダー唯一の西部劇であり「アンチ・ウェスタン室内劇」と明石政紀は評している[49]。「ラオール・ウォルシュの『南部の反逆者』に触発されたものと言われる。撮影も初めてミュンヘンを離れ、マカロニ・ウェスタンのロケ地として名高いスペインのアルメリアで行われた」と明石政紀は註している[39]。カメラマンとしてミヒャエル・バルハウスが初めて参加したファスビンダー作品[50]。第21回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品。
- ^ 「ファスビンダーの転機を示す映画であり、かつ実質上アンチテアーター〔Antiteater-X-Film〕の最後の映画となった」と明石政紀は註している[51]。第32回ベネツィア国際映画祭(1971年)で初上映[52]。
- ^ 「ダグラス・サークの影響により、ファスビンダーが作風の転換を試みた重要作」[29]。1971年の「アンチテアーター」の解散後、同年中にファスビンダーが当時 妻だったイングリット・カーフェン、友人のダニエル・シュミットらと設立した映画プロダクション「タンゴ・フィルム(Tango-Film)」[53]の第一作[3]。日本では1972年、『季節を売る男』の邦題で上映されたという[3]。
- ^ 「テレビ演劇。このファスビンダーの戯曲は実在した毒殺犯ゲーシェ・ゴットフリート〔Gesche Gottfried〕の話に基づいている。(..) 以前のテレビ演劇『珈琲店 Das Kaffeehaus』とは違い、ここでは映像効果が多用されている。」と明石政紀は註している[54]。ファスビンダーの原作戯曲は、論創社「ドイツ現代戯曲選30」[55]の第25巻『ブレーメンの自由 : ゲーシェ・ゴットフリート夫人 ある市民悲劇』[56]として日本語訳あり。舞台での初演は映画の前年の1971年(ブレーメン州立劇場)[36]、その後100以上の演出で上演されているという[57]。
- ^ 「西部ドイツ放送のために撮られたテレビ・シリーズ五部作。タイトル (..) の八時間とは労働時間のこと。」と明石政紀は註している[58]。
- ^ 「F・X・クレッツ〔フランツ・クサーヴァー・クレッツ〕の戯曲に基づくこの映画は、最初にテレビ放映されたときに性器の大写しに対し一部の視聴者から抗議が出たり、原作者が自分の意図に反した映画化であると発言したり、それを巡る物議の方でより知られてしまったきらいがある。(..) 結局、原作者クレッツがカットを要求したシーンが削られることになってしまった。」と明石政紀は註している[59]。
- ^ 「ファスビンダー唯一のSF映画にして二部構成の大作」[29]。 原作は米国のSF作家ダニエル・F・ガロイの小説 "Simulacron-3"(1964年)[60]。『模造世界』(2000年)の邦題で創元SF文庫に日本語訳あり[61]。
- ^ 「かのイプセンの戯曲〔『人形の家』〕に基づきファスビンダーが脚色した台本に基づくテレビ演劇」と明石政紀は註している[62]。
- ^ 116分。ストーリーがコーネル・ウールリッチの短編小説「For the Rest of Her Life(邦題: 命あるかぎり)」に近似しており、同作を1968年に雑誌に翻訳掲載していたハイネ出版社から指摘を受けた製作元の西部ドイツ放送(WDR)はすでに撮影が完了していた1974年4月に版権契約を急遽締結した[63][64]。そのため当初1974年3月だった放送予定日が同年5月28日の放送にずれ込んだ[65]。ファスビンダー自身はオリジナルな創作のつもりであったと語っている[66]。
- ^ 141分。初めて興行的な成功を収めた作品とされる[67]。第24回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で初上映[68]。原作はテオドール・フォンターネの詩的リアリズム小説『エフィ・ブリースト』(1894年 - 1895年刊)。「だが、映画の原題は『エフィ・ブリースト〔Effi Briest〕』ではなく、『フォンターネのエフィ・ブリースト(Fontane Effi Briest)』。つまり、これは主人公エフィ・ブリーストに関する映画ではなく、フォンターネの『エフィ・ブリースト』という小説に関する映画なのである。」と明石政紀は註している[69]。原作小説の日本語訳は、『罪なき罪 : エフィ・ブリースト』上下(岩波文庫、1941年)[70]がある。ファスビンダー以前に3度映画化されている[71]。
- ^ 「『不安と魂』で主演したブリギッテ・ミーラのテレビ・ショウ」と明石政紀は註している[72]。
- ^ アメリカ版ではエンディングが別バージョンになっているという[73]。
- ^ 「これは技巧的に凝った映画である。通常は一つのカットに対し、一つのアングルを必ず決めていたと言われるファスビンダーだが。ここでは撮影監督のミヒャエル・バルハウスと共に様々なアングルから撮り、そこから取捨選択していったと言われる。」と明石政紀は註している[74]。
- ^ 「テレビ演劇。1936年にクレア・ブース〔Clare Boothe Luce〕が書いたブロードウェイのヒット作〔“The Women“〕に基づく」と明石政紀は註している[75]。
- ^ 原作は「オスカー・マリア・グラーフ(Oskar Maria Graf)の小説 "Bolwieser"(1913年)。「二部に分かれたテレビ版と二時間弱の劇場版がつくられた」と明石政紀は註している[76]。
- ^ 1977年のドイツ赤軍によるハンス=マルティン・シュライヤー誘拐殺害事件を契機にテロリズムが吹き荒れる時代相を、呼び掛け人のアレクサンダー・クルーゲ監督以下、ファスビンダー、アルフ・ブルステリン、マクシミリアン・マインカ、エドガー・ライツ、カーチャ・ルーペ、ハンス・ペーター・クロース、フォルカー・シュレンドルフ、ベルンハルト・ジンケル、全9名の映画監督と複数のカメラマンで描いた作品[77][78]。ファスビンダーは冒頭部のエピソードを担当している[79]。一連のテロ事件はこの映画にちなんで「ドイツの秋」と呼ばれるようになったという。
- ^ 原作はウラジーミル・ナボコフの小説『絶望』、脚本はトム・ストッパードが担当[80]。1978年のドイツ映画賞(最優秀監督賞)受賞。
- ^ 題名は「新月を13回むかえる年には破滅者が続出する」との俗信に由来する[81]。
- ^ 原作はアルフレート・デーブリーンの同題の長編小説(1929年刊)。全14話(計14時間58分)の長編テレビシリーズ[29]。
- ^ ダグラス・サークの映画『悲しみは空の彼方に』へのオマージュになっている。
- ^ 「ケルンで行われた演劇祭「テアーター・デル・ヴェルト」の記録映画」と明石政紀は註している[82]。
- ^ ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の古典『嘆きの天使』(1930年)を1950年代のドイツに置き換えた作品[60]。
- ^ ジョン・ウォーターズは、ファスビンダー財団の諮問委員会のメンバーを務めている[89]。
- ^ Thomas Elsaesser(1943年 - 2019年)。ドイツの映画史家、アムステルダム大学教授。日本語ではトマス・エルセサーとも表記。エルセッサーのメロドラマ映画論については、野沢公子の簡便な解説がある[90]。
- ^ 実際、ファスビンダーは1981年に映画評論家に答えたアンケートにおいて、「最も重要な映画」にルドルフ・トーメの『Made in German and USA(メイド・イン・ジャーマン&USA)』(1974年)を、「最も美しい映画」に『Detektive(探偵)』(1968年)と『Rote Sonne(紅い太陽)』(1970年)を数え入れている[94]。
- ^ 荒井泰による書評論文「舞台という無慈悲の場所で」[96]がある。荒井のファスビンダー映画論にもなっている。
- ^ 翻訳の底本は、Rainer Werner Fassbinder; Herausgegeben von Michael Töteberg, Filme befreien den Kopf: Essays und Arbeitsnotizen, Fischer, 1984. である。
- ^ 翻訳の底本は Wolfgang Limmer, Rainer Werner Fassbinder, Filmemacher, Rowholt, 1981. の第2版[97]。日本語版の巻頭には佐藤忠男のファスビンダー論「愛の成就の可能性」(pp. 9-36)を追加している。
- ^ ファスビンダー没後にドイツで出版された文献についても「訳者あとがき」に一部が紹介されている[99]。
出典
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- 1 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーとは
- 2 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの概要
- 3 評価
- 4 備考
- 5 脚注
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