モンゴル侵攻・マムルーク朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 18:47 UTC 版)
「アレッポ城」の記事における「モンゴル侵攻・マムルーク朝」の解説
城塞は1260年のモンゴルの侵攻によって損傷し、1292年にマムルーク朝の君主アル=アシュラフ・ハリール(al-Ashraf Khalil、在位1290-1293年)のもとで修復されたが、1400-1401年に再びアレッポを襲ったトランスオクシアナの指導者ティムールの率いる侵攻により破壊された。 1415年、アレッポを統治した王子サイフ・アル=ディン・ジャカム (Sayf al-Din Jakam) は、5万から10万人の住民の重要な交易都市の中心にある城塞を再建する権限を与えられた。サイフ・アル=ディンは、城塞の北と南の斜面に2基の新たな防衛塔(堡塁)や、城門塔(内門塔)の最上部に新しいマムルーク宮殿(謁見の間)などを増築した。アイユーブ朝の宮殿は、この時代にほぼ完全に打ち捨てられた。マムルーク朝の時代にはまた、城塞における修築や保全事業が施工された。マムルーク朝後期の君主アル=アシュラフ ・カーンスーフ・アル=ガウリー (Al-Ashraf Qansuh al-Ghauri) は、南の外門塔を修復させ、また、宮殿の平らな天井を9つのドームに取り換えた。
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