メッセネへの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:18 UTC 版)
「メッセネの戦い (第二次シケリア戦争)」の記事における「メッセネへの道」の解説
ヒミルコがモティアの回復に動いている間に、ディオニュシオスはセゲスタとエンテラの包囲を解いてシュラクサイに引き上げた。包囲戦中にセゲスタ軍はギリシア軍に激しく抵抗し、野営地に夜襲をかけて損害を与えた。ディオニュシオスは、シケリア西部のエリミ人領域で数に勝るカルタゴ軍と戦闘を行うことを好まなかった(ギリシア側についていたのは2都市のみであったが、エリュクスは既に陥落し、モティア陥落後にギリシアに味方したハリキアエ(en)は再びカルタゴ側に戻る寸前であった)。 メッセネ(紀元前5世紀初頭にザンクルから改称)は、紀元前480年にカルタゴと条約を結んでいたギリシア都市の一つであった。紀元前405年の平和条約では、カルタゴとシュラクサイ双方がメッセネの独立を尊重することを認めていた。しかしディオニュシオスは紀元前404年に条約を破り、メッセネもシュラクサイに合流したため、カルタゴは条約を守る必要は無くなった。紀元前406年のヒミルコの遠征軍は、シケリア南岸に沿って東進してシュラクサイに向かった。加えて、途中のアクラガス(現在のアグリジェント)、ゲラ(現在のジェーラ)およびカマリナ(現在のラグーザ県スコグリッティ)を降伏させたが、これらの都市はシュラクサイの同盟都市であり、また戦利品も多かった。しかし、前回とは異なり、おそらくはシュラクサイを直接攻撃するために、ヒミルコは今回は北岸を進むことを選択した。 カルタゴ軍はセゲスタからパノルムスに戻ると、カルタゴ領を守備するに十分な兵を残し、600隻の軍船・輸送船でメッセネに向かい、北岸沿いを東進した。途中のテルマエ(現在のテルミニ・イメレーゼ)はカルタゴを裏切っていたが、ヒミルコは報復は行わずに通過してリパラ(現在のリーパリ)に向かい、そこで30タレントを献上金として出させた。アッセリニ以外のシケリ人都市はディオニュシオスによって荒廃させられていたが、補給路の安全確保のために、ヒミルコはテルマエとセファデリオンと条約を結んだ。リパラを出帆したカルタゴ艦隊は東へ向かい、陸軍はメッセネの12マイル北方のペロルム岬(現在のカポ・ペローロ)に上陸した。 ヒミルコは当初陸兵50,000、三段櫂船400、輸送船600を率いてシケリアに向かい、パノルムスで30,000の現地兵(シケル人、シカニ人、エリミ人)と合流していたが、シケリア西部の防衛のためにどの程度の兵力を残して来たかは不明である。リパラを出帆した際にはカルタゴ軍は三段櫂船300と輸送船300を有していた。ペロルム岬に上陸したカルタゴ軍はポセイドン神殿近くに野営地を設営した。 シュラクサイやアクラガスのようなシケリアの大規模都市国家は10,000-20,000の市民を兵として動員でき、ヒメラやメッセネでも3,000 – 6,000を動員できた。メッセネは紀元前399年にはシュラクサイに対して30隻の三段櫂船を準備していた。
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