マルコス政権の終焉
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「ベニグノ・アキノ・ジュニア」の記事における「マルコス政権の終焉」の解説
ニノイの暗殺は、反マルコスの機運を爆発させることになった。それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が、一夜にしてフィリピン全土を覆うようになっていた。首都マニラ首都圏では、貧富の差を越えて多くの人々が立ち上がった。貧窮にあえぐ民衆だけでなく、実業家たちもマルコスの政治に限界を感じていた。さらに、暗殺現場に居合わせたカメラマンの映像を基にした、TBS制作の『JNN報道特集』が、海賊版としてフィリピン各地で上映されたことも拍車をかけた。 ニノイが殺害されたことで、マルコスが政権内を完全にコントロールし切れていないことの証左となり、マルコスの弱さを露呈することになった。フィリピン全土に波及し始めた政情不安は、アメリカ合衆国の注目を引いた。やがて世界がフィリピンの動向に注目し始めると、イメルダ夫人の豪勢な生活スタイルやマルコス大統領の独裁体制に非難が集中するようになった。 親米のフィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、アメリカ合衆国連邦政府も望んでおらず、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンもマルコスに対し、ニノイ暗殺の責任があるといって非難するようになったが、後に国外へ逃れたマルコスをハワイ州に迎え入れている。 ニノイが暗殺されると、その遺志を継ぐことになった未亡人の“コリー”コラソン・アキノが注目されるようになった。1986年に、マルコスは国民の不満を解消するため大統領選挙を行ったが、出馬したコリーは徹底して反マルコスキャンペーンを行い、国民の大多数の支持を得た。 1986年2月7日、選挙管理委員会は「マルコスが勝利した」と発表したが、コリーと支持者達(選挙監視委員会「NAMFREL」英語: National Citizens' Movement for Free Elections:「自由な選挙のための全国市民運動」)は不正選挙が行われたとしてこれを受け入れず、抗議した。この抗議を支持した民衆が蜂起しエドゥサ革命(別名:イエロー革命、ピープルパワー革命)が起こり、軍の高官たちもマルコスを見放した(エンリレ国防相とフィデル・ラモス副参謀総長が、「マルコスをもうフィリピン共和国大統領とは認めない」と声明し、国防省のあるキャンプ・アギナルド(英語版)に篭城、ラジオ・ベリタス・アジアも市民に二人の支援を呼びかけたことは有名)ため、マルコス一族はアメリカ合衆国のハワイに亡命した。 ニノイは、今日でも根強い人気を誇っており、フィリピン共和国の英雄である。2010年発行の新500ペソ札には、ニノイとコリーの夫婦肖像が印刷されており、ニノイが暗殺されたマニラ国際空港は「ニノイ・アキノ国際空港(NAIA)」と改称された。ニノイの息子ベニグノ・アキノ3世はタルラック選出の上院議員となり、2010年にフィリピン共和国大統領に就任し、新500ペソ紙幣には夫婦の肖像画の脇に、息子ノイノイの署名が書かれている。娘のクリス・アキノ(英語版)は、女優として活動している。
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マルコス政権の終焉
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「フィリピンの歴史 (1965年-1986年)」の記事における「マルコス政権の終焉」の解説
「1986年フィリピン大統領選挙(英語版)」も参照 不正な選挙結果はアキノやその支持者から受け入れられなかった。リチャード・ルーガー(英語版)上院議員が率いるアメリカ合衆国の代表団など国際的な監視団は、公式の選挙結果を公然と非難した。フィデル・ラモス将軍やフアン・ポンセ・エンリレ(英語版)国防大臣は、その時離反しクラメ基地(英語版)内に自らを閉じ込めながら政府への支援を撤回した。これでマルコスがハワイに亡命しコラソン・アキノが1986年2月25日に第11代フィリピン大統領になることになる平和的な1986年エドゥサ革命に結び付いた。アキノの下でフィリピンは第四共和国を終焉させ第五共和国の開始へとつながる新憲法を採択した。
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