マジェルテーンによるスルターン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:15 UTC 版)
「マジェルテーン」の記事における「マジェルテーンによるスルターン国」の解説
昔のマジェルテーンの政治形態ははっきりしない。17世紀初頭にはマジェルテーンとして氏族集団を形成していたらしい。18世紀半ばにはスルターン国と呼べるほどの勢力になっていた(マジェルテーンスルターン国)。 1860年に即位したスルターンであるオスマン・マハムド(英語版)の頃、ヨーロッパ人との交流が始まった。オスマン・マハムド王は時代の波に乗り、カルカール州、ヌガールなどを支配下に置いた。さらに交易網を強化し、外国と条約を結んで、強力な中央集権制度を敷いた。ところが、いとこのユスフ・アリ・ケナディド(英語版)の勢力と争いが生じ、当初はケナディドをアラビア半島のイエメンに追放することに成功するが、ケナディドはホビョのハウィエ氏族を1878年に制圧してホビョスルターン国(英語版)を作った。しばらくはオスマン・マハムドとユスフ・アリ・ケナディドの王国が並立する状態が続いた。両国の活動記録文書も残されている。 1888年、ユスフ・アリ・ケナディドはオスマン・マハムドに対抗するため、自国をイタリアの保護領とした。翌1889年にはオスマン・マハムドも自国をイタリア保護領とする条約を結ぶ。この頃、イギリスとイタリアは競うようにしてソマリア各地の氏族集団を保護する条約を結び、支配を広げていった。 20世紀になると、イスラーム聖職者(ムッラー)のサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンが大規模な反乱を起こし、一時はイタリアやイギリスの軍を破って勢力を伸ばした。イタリアはユスフ・アリ・ケナディドに対してイギリス軍への協力を要請するがケナディドはこれを拒否し、結局ケナディドはイエメンのアデンに、その息子はエリトリアに追放されてしまう。 ケナディドの別の息子であるオスマン・ユスフ・ケナディド(英語版)は有名な詩人、学者であり、1920年代にソマリ語を表記するために、ラテン文字でもアラビア文字でもない独自のオスマニヤ文字を考案している。 イタリアはサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンの反乱鎮圧を通じて勢力を伸ばし、最終的にマジェルテーン居住地を含めたソマリアの多くをイタリア領ソマリランドとして支配することになった。
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