マウント・ロー鉄道
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「タデウス・ロー」の記事における「マウント・ロー鉄道」の解説
パサデナ設立から間もない時期の市民はサンガブリエル山脈の頂上に至る見晴らしの良い山岳鉄道を夢みていた。その夢に対して具体的な計画を持っていた内の一人に、コーネル大学卒の土木技師デイビッド・J・マクファーソンがおり、その計画とローの持つ資金とを結びつけて事業化するために、マクファーソンはローに引き合わされた。 1891年、ローとマクファーソンはパサデナ・アンド・マウントウィルソン鉄道(後のマウント・ロー鉄道)を共同で設立した。ウィルソン山に至る経路すべての権利を獲得できなかったため、彼らはエコー山の高台を経由してオーク山に至る経路に計画を変更した。彼らの鉄道と他の似たような観光目的の山岳鉄道との違いは、すべての区間で電気駆動のトロリーが走ったことであり、同鉄道が唯一の事例である。オーク山は後にロー山(マウント・ロー)と改名され、アルタデナに移転してきていたシカゴの地図出版者アンドリュー・マクナリー(ランドマクナリーの共同創設者)がその地図全てにマウント・ローの名前を入れることで正式のものとなった。 ローは最初の鉄道区間として、まずアルタデナのレイク通りとカラベラス通りの交差点からルビオ・キャニオンのルビオ・パビリオンまでをつなぎ、そこから全長2,800フィート (853.44 m) のケーブルカーへと乗り換えてエコー山に至るまでの経路を1893年7月4日に開業した。エコー山の頂上には40室のシャレー(山小屋)があった。1894年には、ローは80室のホテル「エコーマウンテンハウス」と天文台を追加した。1896年までに同山のグランド・キャニオンに位置する宿泊施設「イエ・アルパイン・タバン」までをつなぐ上部区間が完成した。これら全てを合わせた鉄道の全長は7マイル (11.265 km) となった。1899年、ローは破産管財人の管理下に置かれることとなってこの事業を失い、資産を使い果した。1902年、マウント・ロー鉄道はヘンリー・ハンティントンがその頃設立したパシフィック電鉄(レッド・カーとも呼ばれた)の一部となった 鉄道の所有物件の内でローの資産として唯一残ったのは、エコー山の天文台だった。そこには16インチ (406.4 mm) の反射望遠鏡があり、多くの天文学的発見がなされた。この天文台は1928年の強風で倒壊した。鉄道は次に述べるように段階的に破壊されていった。1900年2月4日には「エコーマウンテンハウス」が台所からの失火で失われ、1905年には強風に煽られた山火事により、天文台および天文学者のための小屋以外のあらゆる物が消失した。1909年のルビオ・キャニオンの鉄砲水はルビオ・パビリオンを破壊した。1936年には電気による失火で「イエ・アルパイン・タバン」が壊滅した。鉄道は1938年のロサンジェルス大洪水の後、放棄された。
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