ヘボンと医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 05:10 UTC 版)
「ジェームス・カーティス・ヘボン」の記事における「ヘボンと医学」の解説
宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。 日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は脳外科であったが、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれる。日本人の弟子を取って教育していたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になった。博士のラウリー博士宛ての手紙によると、計3500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行った。白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったという(1861年9月8日の手紙)。また、名優澤村田之助の脱疽を起こした足を切断する手術もしている。その時は麻酔剤を使っている。一度目の手術は慶応3年(1867年)であるが、その後も脱疽の進展にともない切断を行っている(横浜毎日新聞1874,6,11日付)。専門が脳外科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べている。ヘボンの弟子の中からは、のちに日本で初の近代的な眼科病院を創設した丸尾興堂など、多くの優れた人材が巣立っていった。 その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」がある。
※この「ヘボンと医学」の解説は、「ジェームス・カーティス・ヘボン」の解説の一部です。
「ヘボンと医学」を含む「ジェームス・カーティス・ヘボン」の記事については、「ジェームス・カーティス・ヘボン」の概要を参照ください。
- ヘボンと医学のページへのリンク