プレイエル社史
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イグナツ・プレイエルによって1807年にPLEYELを冠した最初のピアノが製造される。1813年にイグナツは、正式にカミーユにその経営権を譲り、1829年にイグナツの健康状態の悪化を機にプレイエル親子は財産の整理を始め、長年の友人であるカルクブレンナーが、プレイエルピアノの製造、販売、貸出を行うPleyel & Co.を設立する。 1855年にカミーユよりオーギュスト・ヴォルフに経営権が引継がれ、ヴォルフは、工場をパリからサンドニに移動させる。55000m2の広大な工場では、1866年の最盛期には年間3000台のピアノを生産した。1887年のヴォルフの死を受け、義理の息子であるギュスターブ・リヨンが経営を引継ぐ。優れた音楽家でもあり、鉱山技師でもあったリヨンは、製造の近代化に成功する。1866年には、プレイエルの経営は、パリのロシュシュアールのショールームの他に、パリ市内に2軒、ブリュッセル、ロンドン、シドニーにそれぞれ1軒ずつ支店を持つまでに成長した。 1927年にパリにサル・プレイエルが建設される。 1930年、リヨンが経営より退く。時を同じくして、1929年のアメリカの株の大暴落を受けたプレイエルのピアノ部門が1933年財産管理下に陥る。翌年、プレイエル破綻。サル・プレイエルは、クレディリヨネ銀行に買収され、1998年までその管理下におかれる。 1961年、経済的苦境の中、前年に合併したばかりのガヴォー・エラールと合併し、ガヴォー・エラール・プレイエルとなる。この時点で、多くのピアニストの証言からプレイエルの音は消えたといわれている。1971年に、ドイツのシンメル(Schimmel piano company)により買収され、工場をドイツのブラウンシュヴァイクへと移転する。このシンメルによる経営はその後25年に亘る。この買収劇によって、プレイエルブランドのピアノはドイツ資本となったものの、技術者たちが出資者たちの援助のもと、北フランスに工場を開き、ラモー(Rameau)の名でフランスピアノを作り続ける。 サル・プレイエルの所有者であるクレディリヨネ銀行が、1995年に経済的なスキャンダルに見舞われ、その財産が国の管理下におかれ、競売に掛けられる。翌年、フランス人ビジネスマンのユーベル・マルティニがサル・プレイエルを購入し、南仏アレスに移転していたプレイエルの工場の再生にも着手し、名称もフランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)に変更する。翌1998年、サル・プレイエルの実質的な売却が行われ、70年間の分裂を経て、再びプレイエルが一つになる。サル・プレイエルは2006年9月に再開され、オーケストラの公演など多くのコンサートを開いている。 2002年マルティニの要請を受け、アルノー・マリオンがサル・プレイエルとフランス・ピアノ製造会社の経営に関る。2006年現在、フランス・ピアノ製造会社は、アラン・ラフォンにより運営されている。 2007年業績不振により、南フランスのアレス工場から撤退し、パリ郊外にアトリエ工房として再出発を果たす。体制としては受注生産であり、2008年度の生産台数は20台、2009年度は16台と、零細企業としての経営を余儀なくされていた。2013年にはついに生産中止を発表。ただし、在庫については当面販売が続けられる。 2014年9月、パリ・ドメニル通りのヴィアデュック・デザール(フランス語版)に本社を移転した。現在は同社ピアノの修復が中心で、グランドピアノのみ特注で製造している。2016年には中国に販売会社がオープンしている。
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