フリードリヒ皇帝の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:02 UTC 版)
「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の記事における「フリードリヒ皇帝の対応」の解説
ローマ教皇と教皇によって破門された皇帝との内部対立は、帝国の東部国境にモンゴル軍が到った際の帝国の対応の妨げとなっていた。1241年5月、皇帝と教皇の代表は、対モンゴル軍共同戦線を維持するために、また教皇と皇帝の内部対立の解消のために会議を開いたものの、この会議は何ももたらさなかった。イタリアでは、フェラーラの司教フィリッポ(英語版)が、皇帝フリードリヒ2世がモンゴルに使者を送り、モンゴルと同盟を結ぶ書簡を受け取ったと主張して広めた。また、教皇の代理人がドイツで同様の噂を流している。 皇帝フリードリヒ2世はこの危機の間、イタリアに留まっていた。フリードリヒ2世は5-6月にイタリアから、モンゴルの脅威に対抗するための7つの指示をまとめた書簡をドイツに送った。その中には、技術を持たないモンゴル軍に恐怖心を与えるとされる石弓の使用を特に命じていている。同じ忠告は数年後の『タルタルとの関係(英語版)(Hystoria Tartarorum)』でも繰り返されている 。 6月20日、フリードリヒ2世はファエンツァで『Encyclica contra Tartaros』を発表した。これはタルタル人(モンゴル人)によるキエフの陥落、ハンガリーへの侵攻、そしてドイツへの脅威を広く知らしめ、各キリスト教国がキリスト教圏防衛のために適切な人員と武器の割り当てを行うことを要請する回勅であった。マシューが残した回勅の写しによると、回勅はフランス、スペイン、ウェールズ、アイルランド、イングランド、シュヴァーベン、デンマーク、イタリア、ブルゴーニュ、アプリア、クレタ、キプロス、シチリア、スコットランド、ノルウェーのカトリック諸国に宛てられており、それぞれの国の状勢に合わせて書かれていた。サンジェルマーノのリチャード(英語版)は、西欧のすべての王子に写しが送られたと述べ、フランス王への手紙の冒頭を引用している。回勅の中で、フリードリヒ2世はハンガリー王国の服従を受け入れたことを示している。
※この「フリードリヒ皇帝の対応」の解説は、「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の解説の一部です。
「フリードリヒ皇帝の対応」を含む「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の記事については、「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の概要を参照ください。
- フリードリヒ皇帝の対応のページへのリンク