フリードリヒ・ハーゼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 04:29 UTC 版)
「イフラントの指輪」の記事における「フリードリヒ・ハーゼ」の解説
フリードリヒ・ハーゼ以降においては、指輪の歴史はよく伝えられている。 ハーゼは、当時プロイセン王国の王太子だったフリードリヒ・ヴィルヘルムに仕えた召使の息子としてベルリンに生まれた。実はホーエンツォレルン家の血を引いているのではないかという噂もあり、これをハーゼは有利に用いたといわれる。 初期はポツダムやヴァイマルで修業したのち、プラハに移り、ここで一定の成功を得た。やがてカールスルーエ、ミュンヘン、フランクフルト・アム・マインやサンクトペテルブルク、ニューヨークでも舞台を踏むなどキャリアを重ね、最も成功したドイツの俳優のひとりとなった。 デーリングとハーゼの両名は、実際に指輪を着用しているところを目撃されたことはないため、この指輪、およびそれにまつわる歴史一切は、実はハーゼの創作によるものではないかという説がある。実際のところ、指輪の歴史のうち現代において判明している分は、ハーゼより始まっている。指輪が保管されていたケースの中から発見されたメモの内容は、この説とは相違するが、これは簡単に説明がつくものである。何より、ハーゼが残している記録には、デーリングの未亡人から指輪を受け取ったのが1875年とされており、デーリングが亡くなったのは1878年であるという事実と矛盾する。 ハーゼは1911年に死去し、指輪をアルベルト・バッサーマンに遺した。この時、ハーゼはバッサーマン宛の書簡も指輪に添えている。1908年のクリスマスにベルリンで書かれているこの書簡では、お互いによく知り合うことができなかったことへの悔恨の念が綴られている。またここでは指輪の由来についても述べられており、将来指輪の歴史を追究するにおいて、この書簡が主たる情報源となるであろうことが記されている。
※この「フリードリヒ・ハーゼ」の解説は、「イフラントの指輪」の解説の一部です。
「フリードリヒ・ハーゼ」を含む「イフラントの指輪」の記事については、「イフラントの指輪」の概要を参照ください。
- フリードリヒ・ハーゼのページへのリンク