ファーノ時代から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 03:08 UTC 版)
「フランチェスコ・グリフォ」の記事における「ファーノ時代から晩年」の解説
グリフォは、彼と同様にアルドゥス・マヌティウスと対立してヴェネツィアを去り、ウルビーノ公国ファーノにおいて一族でヘブライ語の印刷会社を経営していたゲルショム・ソンチーノ(英語版)の下で働くことになる。ソンチーノがファーノに滞在していた1502年から1507年にかけて、グリフォは第2のイタリック体活字を製作する。これはソンチーノが人文主義者のロレンツォ・アステミオ(英語版)とともに計画していた八折り判のシリーズのために製作したもので、合字を減らしたデザインであった。その後1511年から1513年にかけては、フォソンブローネのオッタヴィアーノ・ペトルッチ(英語版)やヴェネツィアのBernardino Giolito de Ferrari(Stagninoとして知られる)のもとで働いていたが、1512年にはペルージャに定住した。 1516年の秋にはグリフォはボローニャに戻り、そこで出版業を始めた。彼は持ち前の活字製作技術を活かして、ラテン語と現地語の八折り判テキストを次々と出版していった。マヌティウスやソンチーノのおかげでヨーロッパ中の読者に知られていたこれらの本を、グリフォは非常に小さなイタリック体を用いて出版したのである。しかし1518年、グリフォは義理の息子(娘カテリーナの夫であるクリストフォロ・デ・リシア)を鉄の棒で殴り殺したという容疑で起訴された。1899年にボローニャ国立公文書館で発見されたこの裁判に関する文書が、歴史上残っているグリフォの最後の記録である。この裁判でグリフォがどのような判決を受けたかを示す資料は残っていないが、当時のボローニャで殺人罪は死刑であったため、その後彼は処刑されたものと推測されている。
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