ヒンクレーでの復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:10 UTC 版)
「トライアンフ・モーターサイクル」の記事における「ヒンクレーでの復活」の解説
1984年にメリデン工場は取り壊されたが、不動産開発業で財を成した実業家ジョン・ブルーア(英語版)がトライアンフの商標権や生産権を購入、新たなトライアンフを立ち上げた。社名は当初「ボンネビルコヴェントリー」(Bonneville Coventry Ltd )、のちに「トライアンフ・モーターサイクル」(Triumph Motorcycles Ltd )となった。 新たな会社の生産設備および設計は日本のオートバイ・メーカーには対抗できず、ブルーアは直ちにはトライアンフの生産を再開しなかった。当初はデヴォンのニュートン・アボット(英語版)でレス・ハリス(英語版)の経営する「ハリス・インターナショナル」(L F Harris International Ltd )がボンネビルのライセンス生産を行なった。これは1985年から生産され、ハリスの名やその所在地から、「デヴォン・ボンネビル」あるいは「ハリス・ボンネビル」とも呼ばれた。ハリス・ボンネビルは基本的にセルモーター等が採用されていない前期型T140を基にしており、ライセンス生産の条件で「生産はオリジナルに忠実に」と規定されていたことから、自動車排出ガス規制などの環境基準へ対処しきれなくなり、1988年には生産を終了してしまう。なおハリス・ボンネビルには、英国仕様と米国仕様の二つがあり、日本においては両仕様ともに1988年まで輸入販売されていた。 1990年には新会社の準備も整いレスターシャーのヒンクレー(英語版)工場を稼動開始、同じオートバイメーカーであるカワサキの技術を取り入れ、新型トライアンフとしてまったく新しい水冷直列3気筒あるいは水冷直列4気筒を搭載した一連の車種を発表し、1991年には車両の本格生産を開始した。はじめは徹底して部品共通化をはかった「モジュラーコンセプト」による効率的な車種開発が続いたが、徐々に業績を伸ばしたトライアンフは、1997年には直列3気筒という独自性を保ちながら従来のモジュラーコンセプトを脱したT595デイトナを発表、2001年には新たな空冷並列2気筒で往年の車種名ボンネビルを復活させるなど、他社とは違った特徴を持つ車種を送り出している。
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