バルセロナ伯
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バルセロナ伯 (カタルーニャ語:Comtes de Barcelona)は、9世紀から17世紀まで続いたカタルーニャの君主。
- 1 バルセロナ伯とは
- 2 バルセロナ伯の概要
- 3 歴史
- 4 バルセロナ伯の一覧
- 5 脚注
バルセロナ伯
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「ベルナール・ド・セプティマニー」の記事における「バルセロナ伯」の解説
ベルナールが記録に現れるのは、804年12月14日、サン=ギレム=ル=デゼール修道院の設立時の父ギヨームの文書に、4人の息子のうちの1人として記されているのが最初である。 ベルナールはトゥールーズ周辺を相続し、826年頃にバルセロナ伯となったとみられる。ベルナールが最初に注目されたのは、前バルセロナ伯ベラの副官とみられるゴート貴族アイッソ(en)の反乱を鎮圧した時であった。この地の城の駐屯軍はベラに好意的であったため、アイッソの反乱に参加し新伯ベルナールに対抗した。ウゾーナ伯領のロダ・デ・テル城のみが抵抗し、後にアイッソに破壊された。新たに占領した地域から、アイッソはサルダーニャ伯領およびバリェスを攻撃した。若き伯ベルナールは皇帝や在地貴族に支援を求めた。増強されたベルナール軍に反撃するため、アイッソは弟をコルドバのエミールアブド・アッラフマーン2世のもとに送り、加勢を求めた。827年5月、アブド・アッラフマーン2世はウバイドゥッラー・アブー・マルワーン将軍をサラゴサに派遣し、そこをバルセロナ侵攻の拠点とした。ウバイドゥッラーは夏にバルセロナへ達すると街を包囲して周辺を破壊したが、街を占領することはできなかった。 皇帝ルートヴィヒ1世はこの攻撃を知り、次男アキテーヌ王ピピン、トゥール伯ユーグおよびオルレアン伯マトフリードに対ムスリム軍を集めるよう命じたが、なかなか進まなかった。軍が到着したころには、アブー・マルワーンはすでにアイッソらとともに、イスラム領内に撤退していた(827年末)。 この撤退がベルナールの勝利と受け取られ、ベルナールは大いに名声を高めた。破壊されたバルセロナ属領のウゾーナ伯領は破壊によって荒廃し、9世紀半ばまで過疎化した。ユーグとマトフリードによる派兵の遅れが原因とされ、両者はその責任を問われて828年のアーヘンの議会で領地を取り上げられた。その議会において、オルレアンはウードに与えられ、ベルナールの弟ゴーセムにはコンフランおよびラゼースが与えられた。プロヴァンス公レビュルフが春に死去し、その広大な領土であるナルボンヌ、ベジエ、アグド、メルグイユ、ニームおよびおそらくユゼスは、ベルナールに与えられた。インゲルハイムで6月に行われた議会では、コルドバへの報復攻撃が検討され、ティオンヴィルに軍が集められたものの、ムスリムによる攻撃を受けるリスクが低くなったため、軍はベルナールの領土には入らなかった。
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バルセロナ伯(1957年 - 1977年)
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「カルリスタ王位請求者の一覧」の記事における「バルセロナ伯(1957年 - 1977年)」の解説
1936年にサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスが死去して以来、サリカ法に基づくブルボン家の長子権者は元スペイン王アルフォンソ13世であった。アルフォンソ13世は公認されたスペイン王であったが、1931年に退位させられていた。アルフォンソ13世は"カルロス5世"の弟フランシスコ・デ・パウラの男系の嫡曾孫である。アルフォンソ・カルロスの死をカルリスタとイサベル派に分裂していたスペインの君主制支持者を合同させる機会だと考えた少数派のカルリスタにより、アルフォンソ13世はカルリスタの王位継承者として支持された。 アルフォンソ13世の長男アストゥリアス公(のちコバドンガ伯)アルフォンソと次男セゴビア公ハイメ(後述)は、1933年にそれぞれスペイン王位継承権を放棄しており、またアルフォンソは1938年に死去していた。アルフォンソ13世は1933年に三男のバルセロナ伯フアンをスペイン王位継承者に指名した。バルセロナ伯は1957年、王家の「合同」を望む一部のカルリスタの支持を受け入れたが、1975年に長男のフアン・カルロス1世がスペイン王位に就いたこともあり、1977年にスペイン王位に対する請求を取り下げた。 肖像請求者生没年付記 "フアン4世"(フアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ)1957年12月20日 - 1977年5月14日 1913年6月20日 - 1993年4月1日 バルセロナ伯。1977年にスペイン王位請求権を放棄。死後スペイン王位を追尊された(追号はフアン3世)。
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