バイエルン王即位後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 09:38 UTC 版)
「マクシミリアン1世 (バイエルン王)」の記事における「バイエルン王即位後」の解説
バイエルン王マクシミリアン1世はライン同盟に加盟していた王侯のうちで最も重要な一員であり、ナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持したが、オーストリアに地位と領土が保証されたことで反ナポレオン側に回った。しかし1814年のパリ条約では、旧ヴュルツブルク公国と引き換えにチロルをオーストリアに返還している。ウィーン会議にマクシミリアン1世は自ら出席したが、ここでもオーストリアに対してさらに譲歩しなければならなかった。旧プファルツ選帝侯国の一部(現在のラインラント=プファルツ州南部のプファルツ地方、飛び地となった)を返還される代償に、イン川沿いの地域などを割譲させられたのである。マクシミリアン1世は領土の一体性を維持するために奮闘したが、失望に終わった。 その後ウィーンでマクシミリアン1世は、バイエルンの独立を脅かすどのような取り決めにも強く反対した。新たに成立したドイツ連邦がゆるやかな主権国家連合の形態となったのは、ドイツの領邦君主に完全な主権を認めるべきであるとするマクシミリアン1世の主張によるところが大きい。ドイツ連邦の条例は法としてではなく、国際協定として宣言された。 1825年10月13日、ミュンヘン近郊のニンフェンブルク宮殿で死去した。バイエルン王位は長男ルートヴィヒ1世が継承した。 マクシミリアン1世の治世に建設されたバイエルン国立歌劇場の前庭は、彼の愛称に因んでマックス・ヨーゼフ広場と名付けられ、騎乗のマクシミリアン1世の銅像が建っている。曾孫で有名なルートヴィヒ2世と並び、旧バイエルン王国のシンボルとして今なおミュンヘン市民に親しまれている。
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