ナヴァール計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:08 UTC 版)
「第一次インドシナ戦争」の記事における「ナヴァール計画」の解説
1952年5月、アンリ・ナヴァール(英語版)が遠征軍司令官に着任、1953年、米英仏外相会談でナヴァール計画への援助が約束された。この計画で1955年を目処にベトミン軍の中核体を破壊するため、ベトナム国軍やラオス軍および少数民族部隊の諸整備と作戦を実施することとなった。本計画に基づき、フランス軍は8月にナサン、12月にライチャウから撤収し戦力集中と再編成を実施、また補給線遮断を目的に空挺作戦を実施した。7月にランソン、10月にラオカイを占領しニンビンでベトミン軍1個師団を捕捉し損害を与えるも山岳部に逃走され決戦は回避された。これによりフランス軍が自主選定した地域での撃破は困難とわかり、山岳地帯に入り拠点にしベトミン軍を誘引撃滅する方針に変更された。 1953年4月のベトミン軍ラオス進攻によりフランス軍は広域に展開せざるを得なくなったが、それはベトミン軍も同じだった。補給能力を比較すれば、ベトミン根拠地の東部ラオスと中国国境からの補給路を断ち、航空機が使えアメリカの援助が期待できるフランス軍が有利であるとし、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。適地として北西部山岳地帯とラオス平原地帯が選ばれ、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーを拠点とし、ベトミン軍がこの攻撃に現れたところを砲爆撃で粉砕し、周囲数十km一帯やラオス平原地帯に空挺部隊を降下させ、ベトミン正規軍を撃滅する計画となった。ディエンビエンフーは旧日本軍が設営した飛行場跡があり、大規模な空中補給と空挺降下が可能で、作戦航空機のハノイへの往復路としては限界点であり、ここを補給拠点にすることとなった。 本計画に対して、トンキン軍管区司令官ルネ・コニー(英語版)将軍はトンキンデルタの守備兵力減少を理由に反対し、遠征軍団空軍副司令官のニコ大佐は輸送力不足を理由に反対していた。事実、コニー将軍は1953年8月に隷下部隊をナサンから隠密裏に撤収させて、戦線縮小を図っていた。
※この「ナヴァール計画」の解説は、「第一次インドシナ戦争」の解説の一部です。
「ナヴァール計画」を含む「第一次インドシナ戦争」の記事については、「第一次インドシナ戦争」の概要を参照ください。
- ナヴァール計画のページへのリンク