ナポレオンの出兵とハイチ独立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ナポレオンの出兵とハイチ独立の意味・解説 

ナポレオンの出兵とハイチ独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 02:19 UTC 版)

サン=ドマング」の記事における「ナポレオンの出兵とハイチ独立」の解説

1802年フランス掌握したナポレオン・ボナパルトによりサン=ドマングシャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール率い大軍送られ黒人側は敗北した交渉の席に呼ばれたトゥーサン・ルーヴェルチュール逮捕されフランス送られジュラ山脈ジュー要塞収監され1803年病死した。黒人再征服と再奴隷化夢中になったフランス軍対し黒人反乱開始し両者とも血で血を洗う残虐な戦闘繰り広げた。特に黄熱病ルクレール病死した後に指揮官となったロシャンボー子爵ドナティエン=マリー=ジョセフ・ド・ヴィムール(ロシャンボー伯爵ジャン=バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムールの子)の残酷な戦術ムラートたちを辟易させ、ムラート黒人との連合成立した戦況は再び黒人側に傾いた。1803年6月からはイギリス海軍サン=ドマング海上封鎖し、フランス軍補給路を失い苦しむことになった1803年11月18日カパイシャン付近でのヴェルティエールの戦いでロシャンボー子爵率いフランス軍黒人指導者ジャン=ジャック・デサリーヌ率い黒人反乱軍大敗喫し敗走したロシャンボー子爵イギリス海軍降伏してイギリスへ送還された。1804年1月1日、デサリーヌは独立宣言して国号先住民によるイスパニョーラ島呼び名であったハイチ改め、その皇帝即位したハイチ帝国)。 白人植民者たちは敗北したフランス軍先立ちサン=ドマング去り多く北米ルイジアナ植民地へと逃亡した残った白人対しトゥーサン・ルーヴェルチュール違いデサリーヌは容赦がなかった。奴隷労働への報いとして、黒人軍はフランス人たちを虐殺した同年1月から4月までの間にデサリーヌの部隊は町から町へと白人殺して回り、3,000人から5,000人が虐殺された。ナポレオン軍中にいて黒人軍との戦闘ためらい中には黒人側につく者もあったポーランド軍団ポーランド軍人達は、悲惨な運命たどった他の白人たちとは異なり虐殺されず、ハイチへの残留許された。ポーランドへの帰国選んだ者のほかはハイチ住みその末裔は今もハイチ住んでいる。その他ごくわずかドイツ系植民者フランス系寡婦医師技術者など助命された者たちを除き白人ハイチから根絶された。 こうしてサン=ドマング植民地滅びハイチ黒人ムラートの国となった。だが両者その後事あるごとに対立し続け比較裕福政権に近いムラート対す多数派黒人反発続いた国内での混乱独立後も続き欧米からの干渉絶えなかった。フランス19世紀前半フランス植民者失った農園財産などの賠償金ハイチ政府請求しハイチ軍事的圧力の下これを受け容れることとなった。この賠償金20世紀前半までハイチ財政苦しめた

※この「ナポレオンの出兵とハイチ独立」の解説は、「サン=ドマング」の解説の一部です。
「ナポレオンの出兵とハイチ独立」を含む「サン=ドマング」の記事については、「サン=ドマング」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ナポレオンの出兵とハイチ独立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナポレオンの出兵とハイチ独立」の関連用語

ナポレオンの出兵とハイチ独立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナポレオンの出兵とハイチ独立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのサン=ドマング (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS