ナポレオンの出兵とハイチ独立
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「サン=ドマング」の記事における「ナポレオンの出兵とハイチ独立」の解説
1802年、フランスを掌握したナポレオン・ボナパルトによりサン=ドマングにシャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール率いる大軍が送られ、黒人側は敗北した。交渉の席に呼ばれたトゥーサン・ルーヴェルチュールは逮捕されフランスに送られ、ジュラ山脈のジュー要塞に収監され1803年に病死した。黒人の再征服と再奴隷化に夢中になったフランス軍に対し、黒人は反乱を開始し、両者とも血で血を洗う残虐な戦闘を繰り広げた。特に黄熱病でルクレールが病死した後に指揮官となったロシャンボー子爵ドナティエン=マリー=ジョセフ・ド・ヴィムール(ロシャンボー伯爵ジャン=バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムールの子)の残酷な戦術はムラートたちを辟易させ、ムラートと黒人との連合が成立した。 戦況は再び黒人側に傾いた。1803年6月からはイギリス海軍がサン=ドマングを海上封鎖し、フランス軍は補給路を失い苦しむことになった。1803年11月18日、カパイシャン付近でのヴェルティエールの戦いでロシャンボー子爵率いるフランス軍は黒人の指導者ジャン=ジャック・デサリーヌ率いる黒人反乱軍に大敗を喫し、敗走したロシャンボー子爵はイギリス海軍に降伏してイギリスへと送還された。1804年1月1日、デサリーヌは独立を宣言して、国号を先住民によるイスパニョーラ島の呼び名であったハイチに改め、その皇帝に即位した(ハイチ帝国)。 白人植民者たちは敗北したフランス軍に先立ちサン=ドマングを去り、多くは北米のルイジアナ植民地へと逃亡した。残った白人に対し、トゥーサン・ルーヴェルチュールと違いデサリーヌは容赦がなかった。奴隷労働への報いとして、黒人軍はフランス人たちを虐殺した。同年1月から4月までの間にデサリーヌの部隊は町から町へと白人を殺して回り、3,000人から5,000人が虐殺された。ナポレオン軍の中にいて黒人軍との戦闘をためらい、中には黒人側につく者もあったポーランド軍団のポーランド軍人達は、悲惨な運命をたどった他の白人たちとは異なり虐殺されず、ハイチへの残留を許された。ポーランドへの帰国を選んだ者のほかはハイチに住み、その末裔は今もハイチに住んでいる。その他ごくわずかのドイツ系植民者やフランス系寡婦、医師・技術者など助命された者たちを除き、白人はハイチから根絶された。 こうしてサン=ドマング植民地は滅び、ハイチは黒人とムラートの国となった。だが両者はその後も事あるごとに対立し続け、比較的裕福で政権に近いムラートに対する多数派の黒人の反発は続いた。国内での混乱は独立後も続き、欧米からの干渉も絶えなかった。フランスは19世紀前半、フランス植民者が失った農園や財産などの賠償金をハイチ政府に請求し、ハイチは軍事的圧力の下これを受け容れることとなった。この賠償金は20世紀前半までハイチ財政を苦しめた。
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