ナポレオンからの解放戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 06:32 UTC 版)
「アウグスト・フォン・グナイゼナウ」の記事における「ナポレオンからの解放戦争」の解説
1813年、プロイセンはフランスへ宣戦布告、いわゆる諸国民解放戦争を開始する。プロイセン軍総司令官はブリュッヘル、参謀総長はシャルンホルストであった。グナイゼナウは参謀次長となり、共に作戦の立案にあたる。しかし、プロイセンの春季攻勢は満足のいく結果を残せず、さらにリュッツェンの戦いで受けた傷がもとでシャルンホルストが死亡した。グナイゼナウはカール・フォン・クラウゼヴィッツとともにシャルンホルストの追悼の辞を書いた。政府はその公表を許さなかったが、激怒したグナイゼナウは、猛抗議をして公表を認めさせた。 シャルンホルストの死亡によりグナイゼナウが彼の後任となった。グナイゼナウは各師団に配属された参謀将校が直接参謀総長に意見上申できると定めた。また、命令伝達に命令を成文化した訓令を用いた。これによって命令の迅速な伝達と確実な理解を期待することができた。訓令を解釈するのは参謀将校の役割であるため、プロイセン軍は参謀を介して、統一した指揮系統を獲得することができたのである。 8月、第六次対仏大同盟が結成され、各方面からフランスに対する攻撃が開始された。プロイセン軍総司令官ブリュッヘルはグナイゼナウを信頼し、彼に作戦の立案から実行まで全てを委ねた。ブリュッヘルとグナイゼナウは、軍指揮官と参謀総長の住み分けのできる非常に呼吸の合ったコンビであった。また、グナイゼナウは同盟軍に自分と同じ考えを持つ参謀を派遣した。スウェーデン軍にはボイエン、オーストリア軍にはグレルマン、これによって各軍は遠く離れていながらも意思を共有することができた。 9月、対ナポレオン連合軍はかつてない規模での分進合撃によって三方からフランス軍へ迫った。10月半ば、連合軍はライプツィヒ付近で40万を超える兵力の集中に成功し、ライプツィヒの戦いでフランス軍を撃破した。この勝利は戦略レベルでの包囲を完成させたグナイゼナウの作戦によるところが大きい。同盟軍はフランス本土へ侵攻、戦術的な敗北を喫することはあったものの、戦略的にはフランス軍を着実に追い詰めていった。1814年3月13日、ブリュッヘル直率のプロイセン軍はパリへ入城した。ナポレオンはエルバ島へ追放され、ポスト・ナポレオンを議論するウィーン会議が開催された。グナイゼナウは、ナポレオンを生かしておくのは危険であり、射殺すべきだと主張したが、これは聞き入れられなかった。同年末、対フランス戦の功績によって、グナイゼナウは伯爵に叙せられた。
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