ナチスとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/02 04:40 UTC 版)
「ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード」の記事における「ナチスとの交流」の解説
ヒトラーは、イギリス貴族の出自、強固なファシズム思想、ワーグナーの影響を受けた「ヴァルキリー」のミドルネーム(しかもこの名を付けたユニティの祖父はワーグナー一家と親しい間柄だった)、金髪碧眼長身の美女という北方人種の容姿を持つユニティこそ英独を結び付ける象徴となると考えるようになった。ユニティ自身も母が自分を身ごもった地がカナダのスワスティカ(鉤十字)(en)という場所だったことと「ユニティ・ワルキューレ」というドイツ語風の名を使用して自らの神話的なイメージを創造した。 1935年4月初め、ユニティはオズワルト・モズレー卿、ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の娘)、ヴィニフレート・ワーグナーとともにヒトラーの私邸に招かれた。続く4月10日のヘルマン・ゲーリングとエミー・ゲーリングの結婚式にもユニティはヒトラーの側で臨席し、人々から注目された。以降ミュンヘンやベルリンの社交界に参加するようになり、急速にドイツ上流階級・ナチス政治指導層に顔が利くようになった。 7月にはユリウス・シュトライヒャーの悪名高き反ユダヤ新聞『シュテュルマー』にユダヤ人排斥に協賛するユニティの手紙が掲載された。さらにシュトライヒャーからの依頼でニュルンベルク近くのヘッセルベルクでのナチ党集会に貴賓として参加し、そこでスピーチを行った。 しかしこうした行動が英国の新聞に問題視され、ナチ式敬礼をするユニティの写真が「ヒトラーを愛する女」「貴族の娘はユダヤ嫌い」などという見出しで報道された。父母は全国紙から娘の行動に関するコメントを求められて愕然とし、ユニティに帰国を命じ、ユニティは一時英国へ戻ることとなった。
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