ドイルと日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:40 UTC 版)
「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「ドイルと日本」の解説
ドイルは『ストランド・マガジン』1903年10月号掲載の『最後の事件』で、ホームズがライヘンバッハの滝からモリアーティ教授と落ちながら助かった理由として、「日本武術バリツ」をホームズが身に着けていたためと設定した。また『ストランド・マガジン』1925年2月・3月号掲載の『高名な依頼人』では「聖武天皇」と「奈良の正倉院」を話題として出している。 ドイルが系統的に日本についての知識を有していたかは疑わしい。しかし中国分割をめぐってロシアと対立を深めるイギリスは、1902年に日本と対露を目的とした同盟を締結したため、以降イギリス人の日本への関心は高まっていた。そのため知識人層であるドイルが日本について断片的な知識を有していたとしても不思議ではない。 またドイルの幼馴染の友人には東京帝国大学教授ウィリアム・K・バートンがいた。工業化が急速に進展していた明治の日本は、近代的水道網の設備を急いでおり、バートンはそのための人材として1884年に日本政府から招かれていた。ドイルはバートンと写真を通じて仲がよく、バートンが日本にいる間、イギリスにある彼の預金通帳はドイルが預かっていた。そのような関係から2人は文通も多く、ドイルの日本に関する知識もこのバートンから仕入れられた可能性がある。 ドイルと会ったことがある日本人は確認されている限り2人である。1人は1909年から英国留学した英語教師の安藤貫一で、1910年1月にピカデリー・ホテルでドイルと会見している。ドイルは安藤にバートン教授の話や自分の作品の話をし、「ジェラール准将のごとき武勇伝が私は一番好きで歴史小説に心血を注いできたのに、期待したほどの反応はなく、むしろ探偵小説で予想外の成功を収めたのは意外だった」と語ったという。 もう1人は薩摩治郎八であり、彼は20歳のころの1921年にロンドン日本協会副会長アーサー・ディオシーの紹介でドイルと会見した。彼はドイルにアラビアのロレンスについて質問したという。
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