ドイツとの戦争準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:02 UTC 版)
「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「ドイツとの戦争準備」の解説
1911年7月にフランスが植民地化を推し進めているモロッコのアガディール港にドイツ軍艦が派遣されるという第二次モロッコ事件が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣のグレイ外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキスもこの事件を機に自由帝国主義体制の確立と対独戦争準備を一層急がせるようになった。 この頃イギリスは、海軍の貯蔵庫や火薬庫の警備の強化したり、英仏参謀本部間でイギリス軍4〜6個師団を大陸に上陸させる計画を立案したり、日本との同盟の10年更新したり、植民地軍との連携を強化するなど戦争体制構築を急ピッチに進めていた。10月23日にはチャーチルを急進派から引き離す意味で、彼を海軍大臣にすえている。 アスキスによるこうした戦争準備はドイツ側にも洩れており、11月4日にドイツはフランスとの間に協定を締結し、モロッコをフランス保護国と認めつつ、フランス領コンゴの一部をドイツに割譲させた。これによってモロッコ事件自体は収束した。 しかし英独の緊張関係は収束するどころか、1912年に入ると一層緊張した。アスキスは建艦競争の緩和を目指して、1912年1月にリチャード・ホールデン(英語版)を使者としてドイツに派遣し、「イギリス海軍の優位をドイツは認めるべき、ドイツはこれ以上海軍増強を行ってはならない、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をもちかけた(ホールデン使節(英語版))。だがこのホールデン訪独中にチャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。イギリスにとって海軍は不可欠なものだが、ドイツにとっては膨張を意味する」という問題発言を行ったため、ヴィルヘルム2世は心証を悪くし、ホールデンの提案もドイツの海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶された。 ホールデン使節の失敗後、アスキスはドイツとの対決は不可避となったと見て、ドイツ海軍に対抗する英仏両国の海軍連携を深めていった。また戦争に備えた行政機関の整備、陸軍と予備軍の迅速な動員準備、平和のため努力を続けているという民衆向けのポーズに励んだ。
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