トゥハチェフスキー粛清の謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:21 UTC 版)
「大粛清」の記事における「トゥハチェフスキー粛清の謎」の解説
「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」と謳われる内乱時代の英雄で、その後も赤軍の機械化・近代化とその運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たしていたミハイル・トゥハチェフスキー元帥の処刑は世界に衝撃を与えた。 トゥハチェフスキーとスターリンのそもそもの確執は、対ポーランド戦争に遡るといわれる。この戦争でトゥハチェフスキー軍はワルシャワを包囲したが、スターリンが政治委員を務めるエゴロフ軍はワルシャワ包囲の増援を送らなかったため、陥落させられなかった。当時のスターリンは、トゥハチェフスキーの華々しい連勝に嫉妬し、自分も戦勝将軍としてどこかの都市に華々しく入城したいと考えていたとの説がある。だが、レーニンはこれに激怒し、直ちにスターリンの革命軍事会議議員の地位を剥奪した。これによって大恥をかかされたスターリンは、トゥハチェフスキーを逆恨みするようになったという。これが真実であれば、トゥハチェフスキーの存在感はスターリンの自尊心を傷つけるものであったろうことは想像に難くない。 ナチス・ドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好の好機を逃さなかった。「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、親ソのチェコスロヴァキア大統領ベネシュを通じてモスクワのスターリンへ届くよう工作したとされる。一方で、トゥハチェフスキー粛清の口実が欲しかったスターリン側が、ドイツに対しそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではない。 いずれにせよ、「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーは、NKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受けて、スパイであることを自白せざるをえなかった。裁判ではゲシュタポの偽造した文書が証拠として採用され、有罪の判決を受けたトゥハチェフスキーは1937年6月12日に銃殺された。トゥハチェフスキーの妻ニーナも「共犯」として逮捕され強制収容所へ送られた後に1941年10月になって銃殺された。トゥハチェフスキーの12歳の末娘は自殺している。
※この「トゥハチェフスキー粛清の謎」の解説は、「大粛清」の解説の一部です。
「トゥハチェフスキー粛清の謎」を含む「大粛清」の記事については、「大粛清」の概要を参照ください。
- トゥハチェフスキー粛清の謎のページへのリンク