ツァラ派 vs. ブルトン派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 07:21 UTC 版)
「ポール・エリュアール」の記事における「ツァラ派 vs. ブルトン派」の解説
だが、1921年には早くもトリスタン・ツァラとブルトンの対立が露わになり、他のダダイストを巻き込んで相互の溝を深めていった。同年の春に、かつてアナキスト・耽美主義者として青年知識人に深甚な影響を与えた文学者モーリス・バレスが極右的な政治思想に傾倒したことを批判して即興劇「バレス裁判(フランス語版)」を上演したとき、ツァラは観客の前でブルトンをバレス並みの卑劣漢扱いをした(ピカビアはこの前日にダダからの離脱を宣言していた)。1922年1月にブルトンが「現代精神の綱領決定と擁護のための」パリ会議を呼びかけたときにも、ツァラはこれを伝統への回帰だとして参加を拒否した。ブルトンは立体派、未来派、そしてダダを連続的な流れとして捉え、これらを統合して、次の新しい段階へと飛躍するための場を設定しようとしていたのだが、先行するすべての文学運動を完全に否定し、まったく新しい独立した運動としてダダを捉えていたツァラには、ブルトンの発想は到底受け入れられるものではなく、結局、この企画は実現を見なかった。 さらに、ブルトンは1922年3月2日に日刊紙『コメディア(フランス語版)』に「ダダ以後」と題する記事を発表し、「ダダは勇名を馳せていた時期もあるにはあったが、あとにはほとんど哀惜の情しか残さなかった。時が経つにつれて、その絶対権力と専横とがダダを耐え難いものにしてしまったからである」と、ツァラを批判した。ツァラはこれに対する応酬として『髭の生えた心臓』紙を創刊した。これは創刊号をもって終刊となったが、ツァラ派とブルトン派との対立を際立たせることになった。『髭の生えた心臓』紙に作品を掲載したツァラ派はペレ、スーポー、マルセル・デュシャン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)、エリック・サティ、ビセンテ・ウイドブロ(フランス語版)、そしてエリュアールらであった。だが、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」はダダイスムの終焉を告げる事件となった。ツァラのほか、ブルトン、アラゴン、ペレ、ロベール・デスノス、エリュアールらが参加したこの企画で、ダダイストのピエール・ド・マッソ(フランス語版)が「ジッドは死んだ、ピカソは死んだ」と宣言文を読み上げたとき、友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンらが舞台に飛び上がってマッソンに殴りかかり、警察を呼ぶ騒ぎになった。既成の秩序の破壊を唱えるダダが、最後に秩序の維持にあたる公権力に訴えたのは決定的であり、これまでツァラを支持していたエリュアールも、「髭の生えた心臓の夕べ」事件を機に彼と決別した。ツァラ派とブルトン派の根本的な違いは、やがて、すべてを破壊し、無意味化するダダイスムと、無意味や無意識を重視し、そこに新しい表現を見出そうとするシュルレアリスムの違いとして現れることになる。
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