スマラン慰安所事件
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スマラン慰安所事件 (すまらんいあんじょじけん)とは、日本軍占領下のオランダ領東インド(現在のインドネシア)で、軍令を無視した日本軍人がオランダ人女性を慰安所に連行し、慰安婦として働かせた事件のことである[注釈 1]。別名、白馬事件[1]、スマラン事件[注釈 2]。
注釈
- ^ 関係者の間では、白人への劣等感から「白馬事件」と呼んだ、とする意見 (内海愛子)[1]や、被害者が白人女性だったことから、日本人の間ではこの事件は「白馬事件」という下卑た名で呼ばれていた、とする意見がある。なお、当時毎日新聞からの海軍報道班員であった後藤基治が、死後出版された遺著の中に、ジャワ派遣軍宣伝部に入った大宅壮一が陸軍ジャワ派遣軍宣伝班長の町田中佐を担いで、白馬会(白人女性及び白人との混血)と黒馬会(現地女性)を設けたという話が出てくる。産経新聞のジャカルタ支局長を戦後に務めた加藤裕によれば、日本軍では一部下士官や将校、高級軍属は兵舎に住まなくとも良く、しばしば「チンタ」(愛人)と呼ばれる現地妻を持っていて、白馬・黒馬を軍関係者の隠語とする。(『大東亜戦争とインドネシア』(2002:朱鳥社)P.212-215[2]
- ^ スマラン事件は、1945年にスマランで起きた別の事件のことも指す。
- ^ この事件は、バタヴィア69号として裁判されている。起訴されたのは以下の12人である。 池田省一 陸軍大佐 懲役15年 // 三橋弘 スマラン支庁陸軍司政官 無罪 // 岡田慶冶 陸軍少佐 死刑 // 河村千代松 陸軍少佐 懲役10年 // 村上類蔵 軍医少佐 懲役7年 // 中島四郎 軍医大尉 懲役16年 // 石田英一 陸軍大尉 懲役2年 // 齊寅之助 陸軍曹長 無罪 // 古谷巌 軍属 懲役20年(スマラン倶楽部) // 森本雪雄 軍属 懲役15年(日の丸倶楽部) // 下田真治 軍属 懲役10年(青雲壮) // 葛木健次郎 軍属 懲役7年(将校倶楽部) // なお、能崎清次 陸軍中将(幹部候補生隊長、事件当時少将)は、バタヴィア裁判106号で、懲役12年の判決を受けている。 [3] (事件の中心的人物、大久保朝雄陸軍大佐は訴追を知り自殺)
出典
- ^ a b ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房、2002年7月、ISBN 4-7601-2252-4、87頁。
- ^ 半藤一利・秦郁彦・保阪正康・井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年8月、ISBN 4-532-16752-3、152頁。
- ^ 茶園義男、『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』、不二出版、1992年
- ^ 『共同通信』2007年5月12日付
- ^ 「慰安婦問題 対日非難は蒸し返し[リンク切れ]」(Sankeiweb 2007/03/10 06:09)
- ^ “こちら特報部”. 東京新聞. (2013年2月24日)
- ^ 『昭和史の秘話を追う』秦郁彦(著) PHP研究所 2012.3 291頁と309頁、『「慰安婦」強制連行<史料>オランダ軍法会議資料×<ルポ>私は“日本鬼子”の子』梶村太一郎(著) 金曜日 2008.6 116頁、『責任 ラバウルの将軍 今村均』角田房子(著) ちくま文庫 2006.2 510頁~511頁。
- ^ バタヴィア、第69号裁判(ただし、資料によっては第70号裁判とする)。この資料は、日本の国立公文書館にて閲覧可能。
- ^ 本項ここまでの出典は「従軍慰安婦」吉見義明 岩波新書 1995
- ^ 吉見義明『従軍慰安婦』岩波書店 1995年 ISBN 9784004303848 「司令部はただちに慰安所の閉鎖を命令し、閉鎖する。しかし、関係者は処分されなかった」
- ^ “こちら特報部”. 東京新聞. (2013年2月24日). "「従軍慰安婦問題に詳しい吉見義明・中央大教授によれば「旧日本軍は・・・責任者を処罰していない。少なくとも厳罰に処してはいない」という。"
- ^ 女性のためのアジア平和国民基金:「慰安婦」問題調査報告・1999
- ^ 日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に関する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告
- ^ アジア女性基金:デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」
- ^ http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2008/10/25/20081025ddm007030117000c.html[リンク切れ]
- ^ “米議会で初の‘慰安婦聴聞会’…韓国・オランダ人女性3人が証言”. 中央日報日本語版. (2007年2月16日)
- ^ 「慰安婦と戦場の性」新潮社 ISBN 4106005654[要ページ番号]
- ^ 『戦争責任研究』4号1994年6月に記事あり[要ページ番号]
- ^ 「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」[1]p10、p12
- ^ アジア女性基金「慰安婦にされた女性たち」[2]
- ^ Poelgeest, Bart van. 1993. Gedwongen Prostitutie van Nederlandse Vrouwen in Voormalig Nederlands-Indie, Tweede Kamer, vergaderjaar 1993-1994, 23 607, nr.1. Sdu Uitgeverij Plantijinsraat, 's-Gravenhage.─「日本占領下蘭領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」
- ^ 女性のためのアジア平和国民基金:「慰安婦」問題調査報告・1999[要ページ番号]
- ^ 『季刊 戦争責任研究』第3号(94年春季号)p44-p50、新見隆「〔資料〕オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」
- ^ 山本まゆみ; ウィリアム・ブラッドリー・ホートン (William Bradley Horton) (pdf), 日本占領下インドネシアにおける慰安婦 : -オランダ公文書館調査報告-, 女性のためのアジア平和国民基金, p. 120 2015年10月5日閲覧。
- ^ 泉 隆『秘録 大東亜戦史』富士書苑、1953年10月15日、264頁。
- ^ プラムディヤ・アナンタ・トゥール 著、山田 道隆 訳『日本軍に棄てられた少女たち―インドネシアの慰安婦悲話』コモンズ、2004年8月1日。
- 1 スマラン慰安所事件とは
- 2 スマラン慰安所事件の概要
- 3 脚注
スマラン慰安所事件
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「日本の慰安婦問題」の記事における「スマラン慰安所事件」の解説
詳細は「スマラン慰安所事件」を参照 インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(スマラン慰安所事件)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある。
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