ステュアート王朝の分流の爵位に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 14:51 UTC 版)
「マー伯爵」の記事における「ステュアート王朝の分流の爵位に」の解説
後世に認定されたデ・ジュリの上では12代伯の死後、7代伯の娘エレンの孫にあたる初代アースキン卿ロバート・アースキン(生年不詳-1453)が13代マー伯位を継承したことになるが、その息子である2代アースキン卿トマス・アースキン(英語版)(生年不詳-1494)(デ・ジュリの上では14代マー伯)が、12代伯の権利の継承者であることを請求した時、スコットランド王ジェイムズ2世(1430-1460)に認められなかった。 アースキン家の継承を否認したジェイムズ2世は息子の一人ジョン・ステュアート(生年不詳-1479)にギリー伯(Earl of Garioch)とともにマー伯爵を与えた。しかしマー伯ジョンとオールバニ公アレグザンダー・ステュアート(英語版)(1454頃–1485)は、兄王ジェイムズ3世(1452-1488)に反抗し、ついには兄王暗殺まで計画したため、1478年に逮捕された。マー伯ジョンはその翌年に監禁状態のまま死去したが、子供がなかったため、爵位は一代で廃絶した。 彼の死後、ジェイムズ3世の寵臣ロバート・コクラン(英語版)(生年不詳-1482)にマー伯位が与えられたという伝承があるが、その記録は残っていない。 一方マー伯ジョンと一緒に逮捕されたオールバニ公は脱走に成功し、フランス、ついでイングランドへ亡命した。1482年には、イングランド王エドワード4世(1442-1483)に臣従を約してイングランド軍とともにベリク包囲戦(英語版)を開始したが、その戦争中にスコットランドで不平貴族による反乱があり、コクランは殺害されてジェイムズ3世が幽閉される事件があった。戦いに勝利してエディンバラに入城したオールバニ公だったが、自らの不人気を悟って「兄王を救出する」というお題目に切り替え、1482年9月には幽閉中のジェイムズ3世を解放した。これに感謝したジェイムズ3世は1483年1月頃にオールバニ公にマー伯位とギリー伯位を与えた。しかしその後オールバニ公が再び王位への野心を露わにしたので1483年6月に全爵位をはく奪された。 その後、ジェイムズ3世の息子の一人であるジョン・ステュアート(生年不詳-1503)が1486年3月2日にマー伯に叙せられたが、結婚する前に死去したので子供はなく、彼一代で廃絶した。 その後、ジェイムズ5世(1512-1542)と、5代アースキン卿ジョン・アースキン(英語版)(生年不詳-1555)(デ・ジュリの上では17代マー伯)の娘であるマーガレット・アースキン(生年不詳-1572)の間に生まれた非嫡出子ジェイムズ・ステュアート(生年不詳-1570)が1562年1月30日にマリ伯爵とともにマー伯爵を与えられた。しかし彼はジェイムズ6世(1566-1625)の摂政として親イングランド・プロテスタント政策を推進したため、ハミルトン家の者に暗殺されるという最期を迎えた。彼には女子しかなかったため、女子相続が可能な特別継承規定が加えられたマリ伯は存続したが、特別継承規定が加えられなかったマー伯は彼一代で廃絶することになった
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