シリア総督就任、ウマイヤ家の反乱の鎮圧
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「アブドゥッラー・イブン・アリー」の記事における「シリア総督就任、ウマイヤ家の反乱の鎮圧」の解説
アッバース朝最初のシリア総督に任命されたアブドゥッラーはウマイヤ家への強い敵意を露にし、追及の手を緩めなかった。アブドゥッラーはウマイヤ家との和解を宣言する布告を出し、80人ほどのウマイヤ家の人間を祝宴に招いた。宴が酣となった頃、アブドゥッラーが潜ませていた兵士が酔いの回った出席者に切りかかり、死体と瀕死の人間を下敷きにした絨毯の上で宴会が続けられた。絨毯の下のうめき声が絶えた後に死体は打ち捨てられ、犬の餌にされたと伝えられている。カリフ・ヒシャームの孫アブド・アッラフマーンはアブドゥッラーの迫害から逃れた数少ない人物で、イベリア半島に渡って後ウマイヤ朝を建国した。 アブドゥッラーによるウマイヤ家への苛烈な弾圧とホラーサーン軍の略奪はジャンド・キンナスリーン(英語版)知事のアブル=ワードの反乱を引き起こし、アブル=ワードはウマイヤ家のカリフ・マルワーン1世の子孫であるアブー・ムハンマドを擁立してウマイヤ朝の再興を掲げた。反乱軍はキンナスリーン(英語版)近郊でアブドゥッラーの兄弟アブドゥル=サマドの軍を破るが、750年末にアブドゥッラーはMarj al-Akhramの戦闘で反乱軍に大勝する。アブル=ワードはアッバース朝に降伏し、 アブー・ムハンマドは砂漠に逃走した。キンナスリーンでの反乱が鎮圧された直後にアブー・ムハンマドの甥アッバースがアレッポで蜂起するが、アブドゥッラーの軍が到着する前にジャズィーラ総督に任命されたアブー・ジャアファルによって反乱は鎮圧される。その後アブドゥッラーはイスハーク・イブン・ムスリムらに指導されたウマイヤ家の支持者が立て篭もるサモサタの城砦に進軍する。アブー・ジャアファルは交渉によってイスハークを帰順させ、多くのウマイヤ家の支持者は高い地位を与えられてアッバース朝に受け入れられた。 751年夏にカリフ・ヒシャームの孫であるアバン・イブン・ムアーウィヤがサモサタ近郊で反乱を起こしたため、アブドゥッラーはビザンツ帝国(東ローマ帝国)への侵入を中断しなければならなかった。
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