シリア統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)
シリアには伝統的に宗教宗派間の対立が激しく、紛争が絶えなかった。また封建的領主が幅を利かせ、地方行政の担い手が入札によって決められていたこともあって政治・行政の秩序は大いに乱れていた。さらに辺境地域では砂漠地帯の遊牧部族やワッハーブ派が治安を乱し、治外法権をもつヨーロッパ諸国の商人や領事は特権を悪用して私腹を肥やし、税秩序を乱していた。 ムハンマド・アリーはシリア社会の腐敗を是正しようと、シリア総督に任命したイブラーヒーム・パシャを通じ、強力な軍事警察力を背景とした武断的改革を実行しようとした。その結果、地租収入が適正化の兆しを見せるなど改革は行政分野において一定の成果を収めたが、軍事力強化のために行われた戦時臨時税の徴収や労働力の徴用・食料の徴発は反発を招いた。さらにキリスト教徒やユダヤ教徒の地位を向上させようとしたことに対し、イスラム宗教界は激しく反発した。イブラーヒームがアラブ人を重用しようとしたことも、アラブ人と同視されることを嫌うシリア人の反感を買った。シリア人はムハンマド・アリーに対し面従腹背したに過ぎなかった。さらにイブラーヒームが強圧的な徴兵制を実施しようとしたことは、ローマ帝国の統治下にあった頃より兵役に就かず傭兵に頼ってきたシリア人の拒絶を招いただけでなく、人道的な観点からヨーロッパ諸国の反発を招いた。 1838年、イスラム教ドゥルーズ派による大規模な反乱が起こるとオスマン帝国はこれに乗じる動きを見せ、反乱を煽った。
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