シチリア王国とナポリ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:07 UTC 版)
「レッジョ・ディ・カラブリア」の記事における「シチリア王国とナポリ王国」の解説
1060年、ロベルト・イル・グイスカルドとその弟ルッジェーロ1世率いるノルマン人はこの町を占領した(ノルマン人による南イタリア征服参照)。ノルマン人はこの町をRisa と呼んで支配したが、ギリシャの文化や宗教はそのまま認めた(これらは17世紀ころまで維持されることになる)。ルッジェーロ1世の子であるルッジェーロ2世が1130年にシチリア王となったため、この土地はイタリア半島とシチリア島にまたがるシチリア王国の一部となった。シチリアの王位は、1194年から1266年にかけて、シュヴァーベンのホーエンシュタウフェン家のものとなった。1234年には、ホーエンシュタウフェン家出身の皇帝フリードリヒ2世の決定により、この町に定期市 (Fair) が立てられた。 シチリア王位は1266年、フランスの王族であるアンジュー家(アンジュー=シチリア家)のカルロ1世(シャルル・ダンジュー)が占めるが、1282年「シチリアの晩祷」事件を契機に住民の反乱が発生。カルロ1世はシチリア島を追われてナポリに移転し(ナポリ王国)、シチリア島の住民はアラゴン王国のペドロ3世を迎え入れた(シチリア晩祷戦争)。レッジョはメッシーナをはじめとするシチリア東部の都市との歴史・文化・経済的つながりが深かったことから、シチリア人とアラゴン人の反アンジュー家の戦いを支援した。アラゴンの支配下でこの町は Regols と呼ばれ、城砦が拡張された。以後、1266年から1503年にかけ、地理的な要衝であるレッジョはシチリア王国(アラゴン王国)とナポリ王国(アンジュー家)による争奪が繰り返された。 中世のレッジョは、カリグラフィーと印刷の重要な中心地であった。1475年には、レッジョのユダヤ人コミュニティ (La Giudecca) によるヘブライ語の印刷物が印刷されている。これはユダヤ教聖書のモーセ五書についてのラシ(シュローモー・イツハーキー)の注釈書であった。レッジョのユダヤ人たちは、染料や絹の貿易に従事し、国際的に大きな役割を果たした。
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