シオニストとしての行動主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:47 UTC 版)
「ゼエヴ・ジャボチンスキー」の記事における「シオニストとしての行動主義」の解説
1903年のキシナウ(現・モルドヴァ領)でのポグロム(Kishinev pogrom) の後、ジャボチンスキーはシオニズム運動に傾倒するようになる。そこで彼はすぐに豪腕の演説家として頭角を表し、影響力のある指導者となった。ポグロムのさらなる激化の様相が浮かび上がると、ジャボチンスキーはユダヤ人の義勇軍として自衛組織を設立し、ロシア全体のユダヤ・コミュニティの防衛対策とした。ジャボチンスキーのこの行動は、ロシアのユダヤ人達の間に大きな論争を巻き起こすこととなる。この頃、彼は現代ヘブライ語を学ぶことを目標として掲げ、自分の名をウラジーミルからヘブライ語の「ゼエヴ(狼)」に変えた。ポグロムの間、彼はロシア中のユダヤ・コミュニティで自衛部隊を組織し、ユダヤ人民衆の市民権のための闘争を行った。この年、ジャボチンスキーはスイスのバーゼルで行われた、世界シオニスト機構の第6回会議にロシア帝国代表として参加した。1904年のテオドール・ヘルツルの死後、彼は右派シオニストの指導者的立場となっていった。1906年にヘルシンキで行われたロシアシオン主義者ヘルシングフォシュ会議で彼は筆頭演説者の一人としてヨーロッパのユダヤ人に、Gegenwartsarbeit(意訳: 現在の仕事)に携わることと、ロシアの少数派民族に自治権を要求する運動に加わることを呼びかけた。彼はこの自由主義的観点に忠実であり続け、長い時を経た後も「それぞれの民族集団は法律の見地から平等の自治権を認められる」と、将来のユダヤ人国家に暮らすアラブ市民を尊重した。
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