シェヴァルジノ角面堡の戦闘とは? わかりやすく解説

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シェヴァルジノ角面堡の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 18:58 UTC 版)

ボロジノの戦い」の記事における「シェヴァルジノ角面堡の戦闘」の解説

ナポレオン軍予定進路(現在のスモレンスク幹線道路A100号線に相当)の南側に拡がったロシア軍初期位置は、その左翼をシェヴァルジノ角面堡(シェヴァルジノ付近五角形に土を盛り上げた角面堡)で固定されていた ロシア将軍たちは左翼が敵に露出し過ぎて脆弱であることをすぐに認識した。そこでロシア軍前線後退した角面堡守備兵残した。これはクトゥーゾフ大陸軍進軍を単に遅らせるために角面堡守備すべきと主張したのである歴史家 ドゥミトリー・ブトゥルリン(ロシア語版英語版によれば角面堡大陸軍進路決定するための観測点として利用された(とされる)。多数歴史家によれば当時火砲有効射程であったにも関わらず角面堡大陸軍右側面の脅威備えるためであったとされるロシア第1軍参謀長アレクセイ・エルモロフ(ロシア語版英語版)は回想録の中で、ロシア軍左翼大陸軍想定より早く到着した時点で、転進であった語っていた。このようにシェヴァルジノの戦いロシア軍左翼配置転換安全に行なうための時間稼ぎになった角面堡構築とその目的に関して今日に至るまで歴史家の間で論争続いている。 戦闘9月5日ジョアシャン・ミュラ王の大陸軍がピョートル・コノヴニツィン(ロシア語版)揮下のロシア軍大規模な騎兵戦で衝突して始まったロシア軍側面脅かされて、結局コロツキー修道院ロシア語版)の線まで撤退した戦闘は翌9月6日再開したがコノヴニツィンは総督ウジェーヌ・ド・ボアルネ第4軍団到着すると、側面脅かされたので再び撤退したロシア軍はシェヴァルジノ角面堡後退し、そこで激し白兵戦演じられた。ミュラ王はナンスティの第1騎兵軍団とモンブリュンの第2騎兵軍団率いていた。それらの騎兵軍団角面堡対面していたダヴ―の第1歩軍団の内コンパン師団によって支援されていた。同時にポニャトフスキ歩兵部隊南方からその陣地攻撃したロシア軍クトゥーゾフ個人的に命じるまで撤退拒否したので戦闘激しく極めて猛烈になった。 死傷大陸軍4,000~5,000人、ロシア軍6,000人の犠牲の上大陸軍がシェヴァルジノ角面堡占領した小さな角面堡破壊され両軍死傷者覆い尽くされた。 西方からの予期せざる大陸軍進軍とシェヴァルジノ角面堡陥落によってロシア軍陣形壊乱した(ズタズタになった)。防御陣地左側面が崩壊したことによって、Utitsa(現在のru:Утицы)を中心とする新陣地築きつつ、ロシア軍東へ退却したこのようにロシア陣地左側面は側面攻撃格好餌食となった

※この「シェヴァルジノ角面堡の戦闘」の解説は、「ボロジノの戦い」の解説の一部です。
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