サキャ派とモンゴル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 10:09 UTC 版)
6代目座主のサキャ・パンディタはチベット、インド、ネパールなど各地を遊学して顕教、密教両学と医学、占術、芸術をマスターし、別解脱戒・菩薩戒・サマヤの戒律問題の規範を示した『三律儀分別』という著書がある。数多くの重要なスートラ(経典)とタントラを編んだことで知られ、とりわけ『学者入門』『三律儀分別』『サキャ格言』が有名である。 1240年、モンゴル帝国の第2代ハーンのオゴデイの子のコデンはチベットを攻略し、カダム派(英語版)の寺院を焼き、僧侶を殺した。一方、サキャ・パンディタの名声は遠くモンゴルにまで聞こえており、コデンはサキャ・パンディタに面会を要求した。 1244年、サキャ・パンディタは2人の甥のパクパとチャクナ (1239年 - 1267年) を連れ、コデンと青海湖の付近で面会した。この時にコデンがサキャ・パンディタを見込んだ理由は不明であるが、コデンを看病して死から救った、中国人の魔術師をやりこめた、などの伝記が残っている。1249年、コデンはサキャ・パンディタに、ラサやサキャのあるウー・ツァン地域に対する政治権限を与えた。これは、中央チベットにおけるコン氏の政治力が強かったことも物語っている。
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