ゲーリングの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:59 UTC 版)
「ナチス・ドイツの経済」の記事における「ゲーリングの時代」の解説
1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった。この危機を乗り越える方策としては協調外交と軍拡の減速に政策を切り替えるか、軍備拡大を続けて領土拡大によって占領地から収奪するかという二つの道があったが、ヒトラーとナチ党にとっては後者以外の選択はあり得なかった。このため前者の路線を志向するシャハトは放逐される運命であった。さらに食糧輸入への外貨割当拡充をめぐってシャハトと食糧相ダレが深刻な対立を開始した。ヒトラーの命令でナチ党No2の航空相ヘルマン・ゲーリングが仲介に入り、彼は外貨・原料問題の全権を掌握した。 8月の夏期休暇の最中、ヒトラーはオーバーザルツベルクのベルクホーフにおいて、「第二次四カ年計画」の秘密覚書を書き上げた。この覚書には、4年以内に戦争を可能ならしめるための国防経済体制への移行計画が書かれていた。9月9日、ヒトラーはニュルンベルク党大会において、覚書に基づいた自給経済体制(ドイツ語: Autarkie、アウタルキー)の確立を目指す第二次四カ年計画の開始を発表した。10月18日には四カ年計画施行令が発令され、ゲーリングが四カ年計画受託官として、計画遂行のための全権を付与された。シャハトはゲーリングと対立し、11月に経済相を辞任した。以降ゲーリングが経済相も兼ねることとなり、経済分野の全権を掌握することとなった。 計画が進展する1938年頃には過剰な通貨供給と軍需拡大によってさらに景気が過熱し、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻化した。このため1936年11月の物価ストップ令など物価抑制措置が相次いでとられた。また資本集中もいっそう進み、ドイツ企業の12.5%を占める500万マルク以上の大株式会社が、全企業の資本金総額の78.5%を占めるようになっていた。
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