ケルマーン・セルジューク朝の崩壊
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「ケルマーン・セルジューク朝」の記事における「ケルマーン・セルジューク朝の崩壊」の解説
セルジューク・シャーとの内紛に勝利したムハンマドの後、その子トゥグリル・シャーは兄弟や叔父を倒してケルマーンの統一と保ったが、1169年にトゥグリル・シャーが死ぬと内訌が再燃した。ケルマーン・セルジューク朝でも大セルジューク朝のように各地に分封される王子たちに付属されたアタベク(王傅)の将軍たちの力が強まっており、ケルマーン・セルジューク朝は急速に崩壊に向かっていった理由もアタベクたちの間での内紛によるところは大きい。 これ以降、セルジューク家の王子たち、君主たちから政治の実力は失われ、政権はその時々に権勢を振るったアタベクによって左右された。また、内紛の影響によって、ケルマーン・セルジューク朝の繁栄を支えたケルマーンの通商活動も衰退に向かっていた。 このような混乱の中で、ホラーサーンにおいてサンジャルのホラーサン・セルジューク朝勢力を滅亡においやった遊牧民トゥルクマーン(オグズ)が南下し、ケルマーンの諸都市は次第にトゥルクマーンに奪われていった。ケルマーンにおけるセルジューク朝最後の君主、ムハンマド・シャー(2世)は1187年にトゥルクマーンに敗れて東のゴール朝のもとに亡命し、ケルマーン・セルジューク朝は滅びた。
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