ケルマーン・セルジューク朝の最盛期
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「ケルマーン・セルジューク朝」の記事における「ケルマーン・セルジューク朝の最盛期」の解説
ケルマーン・セルジューク朝はカーヴルトの晩年にファールスから全く勢力を交代させていたが、1084年に即位したトゥーラーン・シャーのもとでその奪回を進め、再び勢力を拡大し始める。1094年にはマリク・シャーの寡婦で幼い我が子マフムードをスルタンとして擁立したテルケン・ハトゥンが、マリク・シャー没(1092年)後の後継者争いを有利にするためにファールスの奪還を目指して軍を派遣してきたが、トゥーラーン・シャーはこれを破って支配を確実なものとした。 トゥーラーン・シャーの子で、イスマーイール派に傾倒したため支配下のスンナ派の人々の反感を買って殺害されたイーラーン・シャーの後、1101年に即位したケルマーン・シャーの子アルスラーン・シャーの時代にケルマーン・セルジューク朝は最盛期を迎えた。アルスラーン・シャーは再び対岸のオマーンまで支配下に収めることに成功し、中央アジア・イランとペルシア湾を経てアラビア半島・アラビア海と接続する位置にあたるケルマーンは交易の中継地として繁栄を極めた。また、大セルジューク朝の後継者争いに勝ち残って1105年にイラクでスルタンとなっていたムハンマド・タパルと結び、その娘を娶ってケルマーンの支配者として大セルジューク朝に自らの支配権を認めさせ、セルジューク朝諸政権間の安定を実現した。1118年にムハンマド・タパルが死んだ後はその弟でホラーサーンの支配者としてスルタンに即位したサンジャルの権威を承認する一方、ムハンマド・タパルの子孫であるイラク・セルジューク朝とも良好な関係を保った。 長きに渡ったアルスラーン・シャーの治世は彼の諸子の間での後継者争いを激化させ、1042年には諸子のひとりムハンマドによってアルスラーン・シャーは退位させられた。アルスラーン・シャーは3年後に幽閉先で亡くなったが、幽閉地の外ではムハンマドとその兄弟セルジューク・シャーの間で内紛が起こった。しかし、この混乱によってもケルマーン・セルジューク朝の勢力はすぐに揺らぐことは無く、統一は保たれていた。
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