クォン・デとは? わかりやすく解説

クォン・デ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/26 16:39 UTC 版)

彊㭽
Cường Để
阮氏
日本での彊㭽(左)と潘佩珠(1907年頃)

全名 阮福彊㭽
Nguyễn Phúc Cường Để
称号 畿外侯
出生 嗣徳35年1月11日 (1882-02-28) 1882年2月28日
大南国順化
死去 (1951-04-06) 1951年4月6日(69歳没)
日本東京都文京区日本医科大学付属病院
埋葬 1964年(改葬)
ベトナム共和国フエ市トゥイアン社グータイ邑
配偶者 黎氏珍
子女 阮福壮烈、阮福壮炬、尊女氏好
父親 阮福英濡
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クォン・デベトナム語Cường Để / 彊㭽)は、阮朝大南宗室独立運動家。ベトナム阮朝初代皇帝嘉隆帝の末裔。1915年に日本に亡命し、玄洋社などの支援を得て南一雄などの偽名で活動したのち、日本で没した[1]

生涯

順化[2]において、感化郷公阮福英濡の子として生まれた。初名は阮福 民ベトナム語Nguyễn Phúc Dân / 阮福民)。英睿太子嘉隆帝の長男)の玄孫[2]、感化郡公阮福麗鐘中国語版の孫にあたる。父の死後、同慶帝から畿外侯に封じられた。当時の大南は、フランスインドシナ総督府の支配下で疲弊していた。成泰16年(1904年)、大南の独立を志した彊㭽は、潘佩珠らと共に抗仏組織である越南維新会を設立してその会長の座に就いた[3]。成泰17年(1905年)に潘佩珠は独立への助力を請うために日本へ密航し[3]、翌成泰18年(1906年)、彊㭽も秘密裏に一度帰国した潘佩珠と共に日本へ上陸した[4]。訪日後の彊㭽は東京振武学校早稲田大学で学んだ。

維新元年(1909年)に日仏協約が成立する[5]と、犬養毅から激励を受けた後、維新3年(1909年10月30日に追われる形で門司港から上海に渡り、ドイツイギリスなどで活動した後、維新9年(1915年)に再び訪日して[6]犬養や柏原文太郎松井石根らの庇護を受け、亡命外国人支援で知られる新宿中村屋相馬愛蔵黒光夫妻の元に身を寄せた[7]玄洋社などの支援を得て林徳雄南一雄という偽名で活動した後、保大15年(1940年)の日本軍による仏印進駐に協力した[8]

大戦中の戦災で住居を失ったため、慶応大学教授橋本増吉宅の二階を借り、家政婦の安藤ちゑとその甥の成行と3人で暮らしはじめた。後にGHQに帰国を直訴し、1950年(昭和25年)7月、訪日時に用いた中国人名でバンコク行の船に乗ったが、フランス大使館から連絡を受けたタイ政府が上陸を拒否したため帰国は叶わなかった[9]

1951年(昭和26年)4月6日、東京の日本医大病院で肝臓癌により客死。69歳没。遺骨の一部はクォン・デを支えていたカオダイ教指導者のファン・コン・タック英語版によって1954年タイニン省に渡り、遺骨の大部分が1957年1月12日にフエに戻り、長男のチャン・リエットの手により最終的にフエ市トゥイアン社(現在のアンタイ坊ベトナム語版)グータイ邑の墓地に埋葬された。残りは東京の雑司ヶ谷霊園にある陳東風ベトナム語版東遊運動の同志)の墓に合葬されている。

クォン・デが合葬された陳東風の墓
クォン・デ
各種表記
漢字チュノム 彊㭽
北部発音: クォン・デ
日本語読み: きょうてい
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家族

美貌で知られた妻のレ・ティ・チャン(ベトナム語Lê Thị Trân / 黎氏珍、1883-1956)との間に男子2人がいたが、大南を発って以来二度と会えなかった[7][10]。保大15年(1940年)、晩年に同居していた家政婦の安藤ちゑと共に台湾の友人を訪ねた際に友人家族と撮った写真が「クォン・デが日本で作った家族」としてベトナムで流布し、ちゑが面倒を見ていた甥の成行がクォン・デとちゑの子と誤解され、ベトナム人民を落胆させた[11]

出典

  1. ^ 『日露戦争が変えた世界史: 「サムライ」日本の一世紀』平間洋一、芙蓉書房出版, 2004、p214
  2. ^ a b 高見 2008, p. 142
  3. ^ a b 高見 2008, p. 143
  4. ^ 高見 2008, p. 144
  5. ^ 高見 2008, p. 145
  6. ^ 平間 2004, pp. 214–216
  7. ^ a b 高山正之. “ザーロン皇帝の末裔クオンデ40年の亡命生活と日本”. ベトナムフエ観光局. 植民地の日々. 2021年6月15日閲覧。
  8. ^ 日本で近代化学んだ東遊運動」『日本経済新聞』2017年2月22日、朝刊。
  9. ^ 森 2003, pp. 218–227
  10. ^ 高見 2008, p. 146
  11. ^ 森 2003, p. [要ページ番号]

参考書籍

  • 森達也『クォン・デ - もう一人のラストエンペラー』角川書店、2003年。 
  • 平間洋一『日露戦争が変えた世界史: 「サムライ」日本の一世紀』芙蓉書房出版、2004年。 
  • 高見茂『続吉備の国から: 地域への思いを込めて』吉備人出版、2008年4月30日。ISBN 978-4860691981 

クォン・デを扱った作品

  • 小松清『ヴェトナム』新潮社、1955年。ASIN B000JB5CKI 
  • 犬養道子「北の南の人」『ある歴史の娘』中央公論新社、1995年。 
  • 牧久『安南王国の夢:ベトナム独立を支援した日本人』ウェッジ、2012年。 
  • 白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子: ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』彩流社、2012年。 

クォン・デ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 04:31 UTC 版)

ディエンビエンフー (漫画)」の記事における「クォン・デ」の解説

ザーロン帝カインの子孫。カイン血筋引いているため王位継承することはない。

※この「クォン・デ」の解説は、「ディエンビエンフー (漫画)」の解説の一部です。
「クォン・デ」を含む「ディエンビエンフー (漫画)」の記事については、「ディエンビエンフー (漫画)」の概要を参照ください。

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