ギフチョウの発見と名前の由来
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「ギフチョウ」の記事における「ギフチョウの発見と名前の由来」の解説
1731年の作とされる国立国会図書館所蔵『東莠南畝讖』にはギフチョウ図が掲載されているが、その当時は「錦蝶」と呼ばれていた。吉田高憲が1840年前後に『雀巣庵虫譜』でギフチョウを「ダンダラチョウ」として挿絵付きで解説していたことから、伊藤篤太郎は『動物学雑誌 第11号』でこの和名をダンダラチョウとするべきと主張していた。 和名は1883年(明治16年)4月24日、名和靖によって岐阜県郡上郡祖師野村(現下呂市金山町祖師野)で採集されたことに由来する。名和靖が採取した標本を石川千代松に同定を依頼し、当時の新種であることが確認された。1887年(明治20年)ギフチョウの食草を発見したものには懸賞金が与えられることになり、当時14歳だった名和梅吉(名和昆虫研究所2代目所長)がその食草の1種であるウスバサイシンを谷汲村で発見し20銭の懸賞金を名和靖から与えられた。1889年(明治22年)4月15日に発行された『動物学雑誌 第1巻 6号』に、明治22年3月中に岐阜県に採取された蝶類目録として「ギフテフ」という名称が掲載され、その後この呼び名が多くの人に知られるようになった。 1887年横浜市に在住していたイギリス人博物学者のヘンリー・ジェイムズ・ストヴィン・プライヤーは、「日本蝶類図譜」で岐阜で採取されていたギフチョウを北海道のヒメギフチョウと同種と発表していたが、イギリスの昆虫学者ジョン・ヘンリー・リーチ(英語版)の鑑定により1889年(明治22年)に新種のギフチョウ(Luehdorfia japonica Leech)であると訂正された。1897年(明治30年)に『昆虫世界』第1巻第1号の巻頭口絵でギフチョウとヒメギフチョウの生態観察のスケッチが学名付きで掲載された。
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