キリナの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/02 19:05 UTC 版)
詳細は「キリナの戦い(英語版)」を参照 西アフリカ史研究の草分けの一人、モリス・ドゥラフォスはかつて次のような説を唱えた。「まず、スマングル・カンテの祖父とカニアガのソソ系貴族がガーナ帝国の旧領を奪った。次に、1180年までにスマングルの父、ジャラ・カンテがクンビー・サーリフ(英語版)の支配権を握ると共にムスリム系の王を退位させ、息子スマングルに国を継がせた(ジャリソ朝)。次に、スマングルがマンデ人を攻撃した」。しかしながら、このドゥラフォス説に対しては、モンテイユ、コルヌヴァン(フランス語版)など多くの研究者が異議を唱えており、現在では否定されている。「ジャラ・カンテ」なる人物は口承伝統には現れず、ドゥラフォスが独自に原典に付け加えた人物であった。研究者の間で意見の一致を見ているのは、マンデ人に対するスマングルの略奪から生き延びたスンジャタが、ソソ帝国に対抗する者たちの援助を得て、1235年ごろに再戦したという歴史的事実があるということである。スマングルは勇敢な戦士であったが、このキリナの戦いで敗れた。スマングルは伝説的な英雄であって、グリオが使うバラフォン(英語版)やダン(四弦ギターの一種)の発明者である。スンジャタはキリナの戦いに勝利を収めると、ソソ人がかつて征服した諸州の支配権を握り、それらを優先的に処分する権利を得た。そして、ジョロフの王など、スマングルの同盟者は後に討伐された。 セレール人の口承伝統によると、セレール人のジョロフ王はかつて、(まさにスマングルのような)魔術師に協力し、その後、スンジャタ配下の将軍の一人ティラマカン・トラオレ(英語版)に打ち負かされたという。その王は、スンジャタが馬の買い入れのため、配下に命じて金を積んだ隊商をジョロフに送った際、金も馬もすべて奪ってしまったという。ジョロフ王はスンジャタの馬を押収し、その皮と共に「お前は馬に乗るに値する狩人でも王でもないのだから、この皮で靴でも作るがよい」というメッセージをスンジャタのもとに送りつけた。これが世に言う「馬泥棒事件」であり、その復讐のため、スンジャタは将軍をジョロフに送り、王を暗殺せしめた。この口承伝統に登場する王こそがキリナの戦いでスマングルに味方したジョロフ王であると推定されている。また、ジョロフ王国の中でも、Diaw 朝や Ndiaye 朝に先立つ Ngom 朝の王の一人であると推定されている。ジブリル・タムシル・ニアヌは、ジョロフ王とスマングルの同盟について、イスラーム化への抵抗の意味合いがあったのではないかと一歩踏み込んだ解釈をしている。
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